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徳川家康には適切な判断と戦略、および高い情報収集能力があったので、天下人になった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、お休みだった。ところで、ドラマの中の徳川家康は優柔不断そのものだが、実は適切な判断と戦略、および高い情報収集能力があったので、詳しく考えることにしよう。

 戦国大名にとって、適切な判断と戦略は不可欠だった。その際、重要なのは、たしかな情報収集能力である。家康に即して、例を挙げておこう。

 慶長5年(1600)6月、家康は上杉景勝を討伐すべく会津に向かった。その途上で、石田三成ら西軍が決起したことを知る。同年7月、家康は小山評定を催すと、ただちに西上して西軍を討つことを決めた。

 携帯電話やメールがない時代だったので、家康は正しい情報を得るのに大変だったはずである。その際に重要だったのは、諸将の意見をよく聞いて、迅速に決断したことだった。

 加えて、黒田長政、福島正則ら有力な諸将を味方にしたことである。長政ら有力な諸将が西軍討伐を主張する急先鋒になったので、家康は有利に事を運んだ。おそらく家康は、事前に周到に準備をしたのだろう。

 家康は西軍を討つため、調略戦にも力を入れた。調略とは、敵の有力な大名に有利な条件を提示し、離反させることである。敵の有力大名が寝返れば、当然、家康が有利になるのだから、適切な作戦だった。

 家康は、頭脳戦も得意だったのだ。家康がターゲットにしたのは、大身大名で西軍の中心だった毛利輝元、そして去就に迷っていた小早川秀秋である。

 家康の命を受けて、輝元を調略したのは、黒田如水・長政父子である。如水と長政は、輝元の配下にあった吉川広家を通して、輝元を東軍に引き込もうとした。

 輝元には安国寺恵瓊という有能な政僧がいたが、恵瓊は西軍に与していたので、交渉を持ち掛けなかった。2人の判断は、見事に功を奏した。

 如水と長政の交渉により、広家は西軍の不利を悟った。当初、心が揺れていた広家だったが、やがて輝元を説得し、東軍に身を投じることを決意させた。

 その結果、合戦前日の9月14日、家康は輝元に当知行安堵(支配している領国の安堵)を条件として、和睦を結ぶことに成功したのである。

 家康の命を受けて、秀秋を調略したのは、浅野幸長と黒田長政である。こちらも功を奏して、秀秋は当知行安堵を条件として、家康と和睦を結んだ。

 なお、秀秋が問鉄砲により、東軍に寝返ったという説は虚説とされている。一連の調略戦の結果、輝元と秀秋は大軍を率いていたので、家康が率いる東軍は有利になった。

 もう一つ重要なのは、家康は西軍の情報を入手し、態勢が整っていない事実を知ったことである。西軍の有力大名の宇喜多秀家は、家中騒動によって戦力がダウンしていた。

 それは、島津惟新も同じだった。特に、島津氏はわずか2千の軍勢しか連れてこなかった。西軍にとっては、すっかりあてが外れてしまった。

 つまり、輝元、秀秋の裏切り、秀家、惟新の戦力ダウンによって、戦う前から東軍の勝利は決まっていたのだ。極論を言えば、当日の合戦はおまけのようなものだった。

 東軍が勝利したのは、まさしく家康の頭脳的な戦略と的確な判断によるもので、それは天下人になる必須条件だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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