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豊臣秀頼は、本当に豊臣秀吉と淀殿の実子だったのか。その真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉と淀殿との間に秀頼が誕生した。古来、秀頼は秀吉と淀殿との間にできた子ではないという説があった。その真相について考えてみよう。

 秀吉は正妻として「おね(ねね)」を娶っていたが、2人の間に子は生まれなかった。秀吉は側室を迎えたが、子は誕生しなかったという(諸説あり)。

 当時、後継者たる男子が生まれないことは致命的なことだったので、秀吉は甥の秀次を養子に迎えることで問題を解決しようとした。しかし、のちに2人の関係は悪化し、ついに秀吉は秀次に自害を命じたのである。

 天正16年(1588)、秀吉は淀殿を側室に迎えた。翌年、2人の間に鶴松が誕生したが、2年後に亡くなったので、秀吉は大いに落胆した。

 文禄元年(1593)、秀吉の念願が叶い、やっと秀頼が誕生したのである。ところが、秀頼は秀吉と淀殿との間にできた子ではなく、淀殿と大野治長が密通してできた子であるといわれてきた(『萩藩閥閲録』)。とはいえ、この話は明確な根拠がなく、単なる噂にすぎないだろう。

 フロイス『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男の鶴松までもが実子でないと明確に書き残している。こうした点は誠に興味深いが、検討の余地があるといえよう。

 余談ながら、姜沆『看羊録』には興味深いことが書かれている。秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺命に従って、淀殿を妻に迎えようとした。しかし、淀殿は治長の子を宿していたので拒否し、家康は治長を流刑にして殺したと記されているが、この話はまったくの虚説である。

 現在でも、秀頼が秀吉の実子だったか否かについての論争がある。実子でないという説では、根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること、秀頼が誕生する約10ヵ月前に秀吉と淀殿はともに肥前名護屋(佐賀県唐津市)にいなかったことなどを理由として挙げている。

 通常、男女が交わってから、約10ヵ月後に子は誕生する。約10ヵ月前に2人が一緒にいなかったのだから、秀頼は実子でないということになろう。

 では、秀頼は誰の子なのだろうか。当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子を授かることがあった。

 おそらく、聚楽第あるいは大坂城内の城内持仏堂を参籠堂として、宗教者(僧侶あるいは陰陽師)と淀殿が交わって誕生したのが秀頼であると指摘されている。

 大胆かつユニークな説であるが、明確な根拠があるわけでもなく、さらに検討を擁するのではないだろうか。

 秀吉は後継者たる男子が欲しかったのだから、秀頼が実子であったか否かは重要な問題ではなかっただろう。仮に、秀頼が他人の子であっても、豊臣家の存続が最優先されたに違いない。

 当時、後継者たる男子がいなかった戦国大名は、親族や他家から養子を迎え入れ、家の存続を図ろうとした。すでに、秀吉も同じことを行っていたのは先述のとおりである。

 そもそも、淀殿は厳重に警護されていただろうから、ほかの男性と交わる機会などなかったのではないか。不倫がバレたときの危険度も極めて高い。そこまでのリスクを冒す価値があったのだろうか?

 いずれにしても、秀頼が2人の間にできた子なのか否かについては、史料的な根拠がないので、これ以上いくら詮索しても意味がないだろう。

主要参考文献

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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