【戦国こぼれ話】戦国武将の結婚は自由恋愛ではなく、政略結婚だった。政略結婚5選
なんと歌手のaikoさんが結婚していたという。おめでたいことだ。ところで、戦国武将の結婚は自由恋愛ではなく、政略結婚が基本だった。その代表例を5つ挙げることにしよう。
■戦国時代は政略結婚だった
戦国時代の武将は自由恋愛ではなく、政略結婚が基本だった。
その理由は、武将同士が婚姻を通して強い関係を結ぶことは、一種の安全保障的な意味合いがあったからだ。
結婚は政治的な色彩が濃かったので、たとえ家臣の場合でも無断での結婚は許されなかった。
あろうことか、家臣が敵対する武将と婚姻関係を結んだ場合、それは離反を意味することになったのだ。
以下、代表的な政略結婚の例を挙げておこう。
■浅井長政とお市
永禄10年(1567)頃、織田信長は近江の浅井長政と同盟を結ぶため、妹のお市を嫁がせた(時期は諸説ある)。
信長が長政と同盟を結んだ理由は、来るべき上洛に備えて、北近江の通路を確保することにあった。
実のところ、長政は朝倉氏と盟友の関係にあったので、この結婚に乗り気でなかったという。浅井氏の家臣も同じ意見であった。
しかし、信長からの熱心な誘いによって、長政の心は揺らいだ。
信長は長政を懐柔すべく、朝倉氏を攻撃するときは、事前に報告するとの誓紙を交わしたという。
こうした条件により、長政は婚姻による同盟締結へ動いたのである。
■北条氏政と黄梅院
天文23年(1554)、武田信玄は今川氏・北条氏と三国同盟を結ぶため、娘の黄梅院を北条氏政に嫁がせることにした。これが「甲相駿三国同盟」である。
大名間の婚姻だけに、黄梅院には1万人ものお供がつくという、豪華絢爛な輿入れだった。
信玄は黄梅院を溺愛しており、弘治元年(1555)に浅間神社へ安座祈願を行い、娘の幸せを一心に願ったという。
■松平信康と徳姫
永禄3年(1560)、織田信長は桶狭間合戦で今川氏を破り、大躍進した。
かつて今川方にあった徳川家康を味方に引き入れることにも成功し、同盟を結ぶこととなった。
信長は同盟の証として、家康の長男・信康に娘の徳姫を輿入れさせた。
永禄6年(1563)に婚約し、その4年後に徳姫は岡崎城に輿入れした。信康も徳姫もまだ5才の子供だった。
■宇喜多秀家と豪姫
天正10年(1582)に宇喜多直家が亡くなると、子の秀家が家督を継承した。
豊臣秀吉は秀家を猶子に迎えたいと考え、秀家と豪姫との結婚を画策した。2人が正式に結婚したのは、6年後のことだ。
実は、秀吉には娘はいなかった。豪姫は、前田利家の娘だった。
秀吉は秀家と婚姻を通じて関係を強化すべく、わざわざ前田家から豪姫を養女として迎え、秀家に輿入れさせたのである。
■伊達輝宗と義姫
義姫は、山形城主・最上義守の娘である。義姫が米沢城主・伊達輝宗と結婚したのは、永禄7年(1564)のことだ。
むろん、結婚に際して政治的な理由があったのは、伊達氏のケースも例外ではない。
当時、最上氏と伊達氏は対立しており、この結婚も両者の関係を深めるための政略結婚だった。和睦の証でもある。輝宗は20才、義姫は15才だった。
■まとめ
5つの政略結婚を取り上げたが、いずれも同盟関係を構築するなどの理由だった。むろん、断ることができなかったのは、言うまでもないだろう。
政略結婚の場合、10歳未満の子供の段階で婚約という例もあった。その場合、おおむね適年齢となる10代半ばを待ち、正式に結婚ということになろう。
同盟や和睦が破綻した場合、妻は元の家に送り返された。しかし、またもや政略結婚の道具として、再婚させられることも珍しくなかったのである。