「どうする家康」築山殿は我が子の信康と徳姫を別れさせようとしたのか
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康の妻・築山殿は、我が子の信康と徳姫を別れさせようとしたといわれている。今回はその点について、詳しく考えてみよう。
松平信康が家康と築山殿との間に誕生したのは、永禄2年(1559)のことである。のちに、信康は家康から自害を命じられたこともあり、その評価は実にさまざまである。
信康は大変粗暴な人物であり、廻りの者の顰蹙を買っていたという評価がある。一方、天正3年(1575)の長篠の戦いで信康は大活躍し、その勇猛果敢さは非常に評価された。かなり両極端な評価だ。
そんな信康と織田信長の娘・徳姫が正式に結婚したのは、永禄10年(1567)のことである。しかし、築山殿は、徳姫と反目していたという。特に、徳姫は娘を2人産んだものの、ついに男子を産まなかった。このことも気に入らなかったようである。
『武徳編年集成』、『改正三河後風土記』には、築山殿の策謀が描かれている。築山殿は、敵対する武田氏の家臣の娘を信康に近づけ、徳姫との関係を破綻させようとしたという。
それだけではなかった。築山殿は明からやって来た医師と情を通じ、その医師を通して、武田勝頼と連絡を取り合った。そして、信康を勝頼と結びつけることで、家康と信長を滅亡に追い込む計画を立てたのである。
もし、家康と信長が滅亡したときは、信康が家康の跡を継承し、三河・遠江の両国を支配することになっていた。そして、築山殿は、然るべき地位の武田方の部将と結婚する計画だった。この計画を聞いた勝頼は、了承したという。
この動きを知った徳姫は、築山殿と信康の動きに愕然とした。こうしたことの積み重ねが、両者の不協和音を生み出し、話を聞いた家康と信長は見過ごせなくなったという。
果たして、築山殿の策謀は事実なのだろうか。『武徳編年集成』、『改正三河後風土記』は、ともに後世に成った編纂物で、ここまで述べた築山殿の策謀は、たしかな史料で裏付けられない。あまりに荒唐無稽で、親を置くことができないのである。