激動の歴史 苛烈な会津の秘所は静かで穏やか 会津松平家 墓所散策-院内御廟【会津若松市】散策・観光
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/top_1687256216185.jpeg?exp=10800)
飲食、観光、会津ぶらぶら。朝寝、朝湯が大好きな あいづ くらし、です。
(庄助さんばりのダメ人間みたいな自己紹介ですが、そこはご笑覧)
天気が良かった&日頃の運動不足解消に、会津藩主 松平家の墓所を訪ねてきました。
会津藩主 松平家(まつだいらけ)の墓所とは、
会津藩主 松平家は、初代の保科 正之 (ほしな まさゆき) が、会津の大名となった1643年に始まります。
戊辰戦争によって1868年9月に、会津藩が降伏開城する9代 容保 (かたもり)まで、鶴ヶ城(若松城)の城主として会津を治めました。*1
墓所は、藩主、その母、子女等が埋葬される廟所です。
ちなみに、9代目 容保(かたもり)は埋葬されているのですが、初代の正之はここには埋葬されていません。(後述)
*1 現在の会津(地方)とは異なります。現在の南会津の多くは幕府の直轄地でした。
3代藩主から9代藩主まで、全国的にも珍しい神式で埋葬されており、国の史跡として指定。
広大な墓所を散策する事で、会津藩の営みの長さに思いが馳せられます。
会津の奥座敷 東山温泉 東山温泉共同駐車場(無料)
東山温泉は鶴ヶ城(若松城)の東方にあり、会津藩の湯治場として栄え、会津の奥座敷と呼ばれる場所です。
![東山温泉共同駐車場入口 会津若松市 福島県](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687256996746.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
東山温泉へ向かうと、温泉街の手前に大きな案内板があり、そこが東山温泉共同駐車場(無料)になっています。
大きな案内板の手前の白い看板に、「会津藩主松平家墓所、駐車場入口」と案内されています。
![東山温泉共同駐車場から会津藩主松平家墓所の方向](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687257269505.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
この駐車場はとても広く、普段の日に満車になることはありません。
駐車場からは、右に東山温泉街があり、左に墓所への入口があります。
![東山温泉共同駐車場から墓所入口を見たところ](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687257356458.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
駐車場から墓所入口までの距離は約150m。
院内御廟 入口と案内されているところなのですが、このように途中、横断歩道がありません。
一旦、東山温泉街へ向かうと、すぐに信号のある横断歩道がありますので、道路を渡ります。
会津藩主松平家墓所前の会津バス「院内バス停」
![会津バス 院内バス停 会津藩主松平家墓所前](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687257569995.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
写真にある「あかべぇ」「ハイカラさん」は「まちなか周遊バス」の名前です。
バスで来られる方は「院内」で降ります。
詳しくは、まちなか周遊バス あかべぇ 会津乗合自動車(会津バス)
をご覧ください。
![道路から会津藩主松平家墓所へ向かう道](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687258072307.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
道路から入っても、すぐに墓所の入口ではありませんでした。
案内では、この先になっています。
山の麓、道の一番奥が墓所の入口です。
会津藩主松平家墓所 院内御廟
「墓所」だったり「院内御廟」だったり、名称が統一されていません。
書きながら気にはしてましたが、看板に「墓所」とあるのに記事に「御廟」とも書けず、その逆も然り。
最初に作られた西之御庭 (にしのおにわ) が院内山 (いんないやま) にあった事から、墓所そのものが院内御廟 (いんない ごびょう) と呼ばれるようになったという事なので、これも歴史の一部とお楽しみください。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687258778940.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
会津藩主 松平家墓所 入口。
案内板があり、その横には「貸出し熊鈴」があります。
昨今、全国の町中で「熊が出た」というニュースがありますが、会津も同様。
ましてや、人里に近くとも、院内御廟は山の中、注意が必要です。
見ると貸出しの熊鈴は一つも残っていませんでした。
この後、院内御廟を散策しましたが、他に散策者は無く、熊鈴は持ち帰られたようでした。
返し忘れたのかもしれませんが、借りられた方は忘れないよう注意ください。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 案内図](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687259097251.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
一巡り約1時間の行程です。
ただし、行きは山登り、帰りは下りになり、程よく高低があります。
普段、トレッキングや山登りをしている人にはなんて事のないコースですが、自分にはちょうど良かった(しみじみと思う)。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 愛馬の墓](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687259831172.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
最初に愛馬の墓がありましたが、実際の墓石は斜めに傾いてました。
カメラも斜めにして撮ったので、まっすぐに見える写真になっています。
(何気にみんなやりがちだと思いますが・・・言い訳。後から写真を見て気づきました)
西之御庭(にしのおにわ)
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭 入口](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687261857205.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
西之御庭への入口、石段の上りになっています。
参道に沿って、山側(入山方向に対して左)
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687262136223.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
院内御廟で一番最初(一番古い)の場所。
1657年、初代藩主 保科正之の子、正頼(まさより)が死去した際に、この院内山が埋葬地とされました。正頼は、享年18。
ちなみに、保科正之の死去は1672年。
西之御庭には、正頼の他に3代、4代、8代藩主の子供、4代、7代藩主の生母が埋葬されています。
正頼が神式、その他は仏式での埋葬。
墓碑銘を見ると、仏式とされる墓は戒名になっていますが、正頼は戒名になっていません。
中之御庭 (なかのおにわ)
西之御庭と同様に、参道から山側へ入って行った奥にあります。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 中之御庭](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687262653466.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
1665年頃に開かれた場所。
初代〜3代藩主までの家族が埋葬されていて、保科正之の五男、正純(まさずみ)が神式、その他は仏式。
参道 分岐
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 分岐](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687262907674.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
中之御庭のすぐ先で、参道が分岐しています。
ルート的には唯一の分岐点で、「入之峰」「中丸山」のどちらを先にまわるかになります。
9代、容保(かたもり)の墓は「入之峰」にあるので、「中丸山」から見てまわります。
分岐の右(谷側)へ進みます。
拝殿
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 拝殿](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687263052154.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
院内御廟の唯一の木造建築物。
木造の建築物が、もう少しあったのではないかと思うのですが、いずれ、往時の姿で院内御廟全体が復元・整備されればと願うところ。
中丸山
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687263161088.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
中丸山は、4代藩主、容貞(かたさだ)と8代藩主、容敬(かたたか)の埋葬地。
写真は8代藩主の容敬。
右手前にあるのが碑石-亀趺(きふ)を台座とする石碑。
中央に小さく見えるのが表石(ひょうせき)で、その右隣に小さく白っぽいのが鎮石(しずめいし)。
藩主は鎮石のところに埋葬されています。
神式の墓です。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山入口](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687263770793.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
中丸山には背炙り山 (せあぶりやま) へ向かう道路と接続する入口があります。
以前、背炙り山から帰る途中に、この入口を起点にして墓所をまわった事があります。
こちらの「貸出し熊鈴」は全てありました、「あった所に返して」と案内があります。
小銭が置かれていて、多分、借りた人が置いたのでしょう。
熊鈴を借りてはいないけど、小銭を少し置きました。
入之峰
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687264297465.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
入之峰 碑石。
入之峰には、
第3代藩主、正容 (まさかた)
第5代藩主、容頌 (かたのぶ)
第6代藩主、容住 (かたおき)
第7代藩主、容衆 (かたひろ)
が埋葬されています。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687264572371.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
各藩主の表石や鎮石は、碑石より高い場所にあり、石段を登ります。
石碑の台座の亀趺(きふ)は、亀の形をしていますが、耳や牙を持ち、指も5本ある伝説上の動物。
院内御廟の亀趺は、全て表石や鎮石を向いています。
上の写真の亀趺が向いているのは、下の写真。
![会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 表石と鎮石](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687267045627.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
手前には石灯籠があり、その奥に表石と鎮石が見えるのですが、立ち入り禁止になっています。
第9代藩主、容保 (かたもり)
入之峰の最奥から石段を登ると、会津藩最後の藩主、第9代 容保 (かたもり)の埋葬地。
![第9代藩主、容保 (かたもり)埋葬地](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687267245238.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
松平 容保は高須藩 (岐阜県海津市付近) 藩主の六男として生まれ、後に、会津藩第8代藩主、容敬の養子となります。
会津松平家の家風教育から、幕末における幕府及び徳川家からの強い信任を受けるに至り、それが京都守護職ひいては、戊辰戦争(会津戦争)という激動を生きた会津藩最後の藩主となりました。
初代藩主もドラマティックな人生でしたが、松平 容保もまた波乱に満ちた人生でした。
晩年は、徳川家康をお祭りしている日光東照宮の宮司を務めました。
松平 容保が無くなった時には、会津藩は既に無くなっていたわけですが、大正6年(1917年)、戊辰五十周年の時に、松平家の菩提寺の正受院というお寺から改葬されました。
碑石も灯籠も表石も鎮石も、どれも真新しく見えます。
![会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 表石](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687267845765.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
松平 容保 (かたもり) 表石で、この後ろに鎮石があります。
左側には、松平家(容保の家族)の墓もありました。
![会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 鎮石](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/aizukurashi/article/00503057/internal_1687268029359.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
他の場所は「立ち入り禁止」でしたが、容保の鎮石は近くで見ることができました。
初代藩主、保科 正之 墓所
保科 正之は、徳川幕府2代将軍、秀忠の4男として生まれましたが、庶子(正室でない子)であった為、信濃国高遠(たかとう、長野県伊那市)藩主の保科正光の子として育てられ、後に高遠藩3万石の藩主となります。
徳川幕府3代将軍の家光から異母弟の正之は重用されました。
謹直で有能であった事から、破格の待遇を持って内外に肉親として知らしめられ、後に出羽国山形藩20万石、更に陸奥国会津藩23万石の大名として引き立てられました。
これが1643年の事、会津藩主 松平家の始まりです。
保科 正之は「会津家訓十五箇条」(あいづ かきん)を定めました。
これは、会津松平家のみならず、藩の方針として、藩士の家の規範となっていきます。
その第一条は、
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」とあり、この家訓が連綿と第9代藩主の容保の時代まで引き継がれ、容保は幕末にあってこの家訓を堅持しました。
将軍家に対して、謙虚でいて断固とした決意が現れています。
そんな正之ですから、松平姓を名乗るように勧められても、保科家への恩義もあってそれを固辞します。松平姓と葵の紋を使用するのは、第3代藩主、正容になってからです。
墓所は、保科 正之の遺言で、福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、墓所に隣接して土津神社(はにつ じんじゃ)が建立され、保科 正之が祭神として祀られています。
会津の秘所 (ひしょ)
院内御廟は、町の喧騒から遠くにあって、厳かな場所でした。
「秘所」には「死者の霊魂が行く場所」という意味があり、秘密の場所というわけではありません。
傷んだ箇所も多々ありますが、徐々に補修もされています。
夏には蝉時雨に包まれ、院内御廟も騒がしくなるでしょう。
秋には紅葉が、冬には雪景色に変わり、また、静寂に包まれるでしょう。
会津藩主 松平家墓所 院内御廟は、会津の秘所として四季折々の歴史散歩が楽しめます。
【会津松平家墓所 (院内御廟) 】
住所:〒965-0813 福島県会津若松市東山町大字石山字墓山
アクセス:バス停「院内」から松平家墓所入口まで徒歩5分
駐車場:東山温泉共同駐車場
電話番号:0242-39-1305 (会津若松市役所 文化課)
地図、ナビ用リンク (行き方/アクセス)
散策コースとして、自分にはいい距離と高低差。
駐車場からは少し距離がありますが、これも散策の一部と思えば楽しい。
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