豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見。片桐且元が占いの結果を変更させて実現したのか?
占いを気にする人もいれば、まったく気にしない人もいるだろう。近世初期の段階では、比較的気にする人が多かった。豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見は、片桐且元が占いの結果を変更させて実現したというが、それは事実なのだろうか?
慶長16年(1611)、豊臣秀頼と徳川家康が二条城で面会することが検討された。しかし、淀殿(秀頼の母)は、秀頼の身に危険なことが起こるのではないかと、非常に心配した。
また、秀頼が大坂城から家康のいる二条城に向かうということは、秀頼が家康の格下になることを天下に知らしめることを意味する。淀殿は、そうしたことも心配したのではないだろうか。
そこで、片桐且元は占い師の白井龍伯を呼び、二条城の面会が無事に終了するものかどうか占わせた。当時の人々はまだ迷信深いところもあったので、占いを頼ることが珍しくなかったのである。
龍伯は真剣な面持ちで、3度も占ったが、結果はいずれも「大凶」だった。つまり、2人の面会はうまくいかないということになろう。これに頭を抱えたのは、面会を実現させたかった且元である。
且元は龍伯を自邸に招くと、占いのことはよくわからないと断ったうえで、結果を吉にしてほしいと懇願したのである。もし面会が実現しなければ、且元は豊臣家と徳川家が戦争になると懸念したのである。
とはいえ、龍伯には占い師としてのプライドがあった。そこで龍伯は自分が与り知らないという条件を付けて、吉と書き換えることに応じたが、もし秀頼の身に何かあったらどうするのかと、且元に問い質した。
且元は秀頼に何かあったら、自分も一緒に死ぬと覚悟を述べたのである。龍伯が吉と書き換えた結果を淀殿に見せると、大いに喜ばれ、秀頼が二条城に行くことを許したのである。
結局、秀頼の身には何事もなく、無事に大坂城に戻っていた。喜んだ淀殿は、龍伯に褒美として金銀を与えたのである。その後、龍伯は且元に会うと、褒美をもらえたのは且元のおかげだと感謝の言葉を述べ、そのまま占い師の仕事を辞めたという。
この話はよく知られたもので、『武家砕玉話』という逸話集に書かれたものであるが、秀頼と家康の面会を実現させるという、且元の覚悟を創作したものにすぎないだろう。史実とはみなし難い。