平成28年12月19日 西宮市長記者会見 書き起こし
「調子に乗って悪ぶった市長が謝罪」
「市長は意地になって屁理屈で自己正当化」
こういう記事にしたかったのでしょうが、そのどちらもするつもりはありません。そもそも撤回や謝罪はしません。撤回や謝罪は、あの場所で真心を込めて話した相手であり、真剣に耳を向けてくれていた彼ら彼女らを愚弄することになるからです。そもそも、今回の騒動一連は、その場で傍聴した一人の市議会議員の主観的感想をもとに起こっています。その発言がなされたイベントの一部始終を体験した当事者である中高生たちの感想ではなく、当日の状況を知らない人たちが、一人の市議会議員の主観的感想をもとにさまざまな反応をしているのです。私がここで為したいことは、顛末を整理して説明することです。本当のことを皆知らないからです。そうすれば、この一連が、的外れであったことを知ることになるでしょう。
あの日、市主催のイベントで、NPO法人カタリバさんにご協力してもらいながら、中高生たちと真剣に「中高生のほしい居場所」について話をしました。オトナたちが彼らに良かれと思って用意する場所が、必ずしも彼らにとって必要な場所とは限らないという問題意識がありました。彼らに本当にほしい場所について本音で語ってもらうため、普段着で来てもらい、構えられないようなラフな環境を作りました。市の職員も普段着でした。本当に中高生たちが思うことを引き出したいと思っていました。私は、彼ら彼女らと議論に参加して1時間ばかり直接話を聞きました。私はほとんどお話を聞いていました。お手伝いしていただいたNPOは中高生の居場所を造ったり、セッションを設ける活動をしている団体さんですが、非常に上手に運営をやって下さいました。中高生の口からは、「何をやってもいい場所」、要は「ちょっとくらい怒られそうなことに挑戦できる場所」「大声でパーティーしたりはっちゃけられる場所」「自由で怒られず窮屈でない無理していい場所」「オトナからうるさく言われない場所」などが共通して出てきました。彼らには「こんなことをすれば怒られる」「そのようなつもりではなかったのに…」ということがよくあるんでしょう。なので、窮屈だと思っているのです。そこで、うるさく言われない自由な居場所がほしいということでした。また、ショッキングだったのは、「オトナはいてもいいが、できれば若く信用できる人がほしい」ということでした。つまり、彼ら彼女らが求めた「彼らのほしい居場所」、それは、「信用して相談できるオトナがいて、はちゃめちゃに弾けても怒られない場所」でした。それは、彼ら彼女らが自分の言葉で語ったキーワードです。オトナの制止やルールが窮屈なだけではなく、彼らはオトナを完全には信用していないのです。些細なことを大きくして先生や親に言いつける。自分たちのことなんて結局わかっていなくて自分たちの考えを押しつける。キレイゴトを言うくせに、自分だってそれができているわけじゃない。そういうオトナに彼ら彼女たちは辟易していて、なんとなく信用していないのです。そこで、そのような大騒ぎしてもいい箱、居場所を市役所につくってほしいと語ってくれました。
その話し合いを経て、私が伝えなければならないと考えたメッセージは、2つ。
・なぜその窮屈なルールがあるのかを考えて、そのルールと自分のやりたいことの折り合いがつけられる場所を探そうとすべきだ。
・オトナたちはどうせ嘘つきで信用できないと思っているだろうけれど、そのオトナたちもみんなコドモだったのだ。
彼ら彼女らは、私がオトナなのにもかかわらず、私を信用して話をしてくれました。だから、こちらもハラを割ってキレイゴトじゃない話をしないと彼らへの敬意を欠いていることになります。中高生はただの子供ではなく半分大人なため、子供騙しのようなことは言えませんでした。なので、「彼らが言ってくれたことは私が市長の間に実現するぞ!」というような適当なことは、言いたくありませんでした。そこでくだんの話をしました。
学校で授業を抜け出してタバコや麻雀や楽器の練習をする部屋があった、ということ。でも、先生をはじめとするオトナたちとは阿吽の呼吸で折り合いをつけていたよ、ということ。居場所はオトナが与えるものじゃなくて自分たちが造るものだよ、ということ。ないものを「ないない」と窮屈に思わないことを言いました。ちなみに、あの場をコーディネートしてくれていたNPOの若者の中には、自身が昔は鑑別所に入ったこともあるけど、いまは更正して若者の居場所造りをつくる団体の活動をしているという好青年もいました。彼がなぜあえてそのような話をしたかというと、「オレは昔鑑別所にいたんだぞ。すごいだろ、怖いだろ。」ということをまさか言いたいのではなくて、昔はオトナたちや社会のルールから良くないとされていた人でも、立派に更生して帰ってくることができるというメッセージです。彼は鑑別所にいて皆に迷惑をかけたことを反省し、できれば中高生たちが悪いことをしても、ちゃんと自分のように帰ってきてほしいと思ったと思うんです。つまり、一線を越えないことが大事であり、窮屈に鬱積するのではダメで、オトナが造ってくれると思ってもダメ。中高生は皆で自分の居場所を造ることが大事なので、「自分で自分の居場所を造ろう」ということを伝えました。そして私が例として出したのが、自分が高校生の時にタバコを吸う場所を学校に持っていたということでした。
格技場の上階に普段は使っていない部屋があったのです。
私たちは鍵を盗みだし、合鍵を造りました。
それで私たちは自由にタバコが吸えて楽器が弾けました。
面白可笑しく「調子乗りの市長が中高生相手に不良武勇伝」と書かれたのは、こういう話です。決して、「そういうことをすればよい」「高校生はタバコを吸っても良い」と言ったのではありません。中高生たちは、オトナの定めたラインのギリギリにイキって挑戦することで、失敗し成長するのです。そもそも中高生の喫煙は、いまや昔と比べると深刻な問題ではなくなっています。いまの中高生たちにとって、喫煙は決してかっこいいものではないからです。"武勇伝"にすらなり得ないのです。その代わり、今学校現場ではどんどん新しい課題も出ているのですが。
あの場所では話さなかったけど、その後日談。高3の正月休み、誰もこの「タコ部屋」を掃除せずに休みに入りました。正月休み明けでこの部屋に来てびっくり。キレイに掃除されていて、部屋のまんなかに紙コップがぽつんと置いてあり、その紙コップに吸い殻が山積みにされていました。
おまえたちさあ、わかってると思うけど、オレたち気付いているからな。
という、先生からのユーモアに富んだメッセージでした。たぶん、「教室で吸ったりよその店で吸ったりするくらいなら…」と苦笑いで黙認してくれていたんでしょう。そして、私は直後に停学になります。教室で「今村、タバコ出せよ」と先生に言われ。「持ってないですけど…」ととぼけたものの、「まあいいから出せよ」と笑われ。職員室で「どうせセンター試験前だから学校休んで家で勉強しろ」と笑いながら言われて停学を食らいました。停学あけ、担任+学年主任+教頭の三人の前でカタチばかりの反省文を読まされたあとで学年主任は言いました。
「反省文はいいとして、おまえさ、タバコ、やめれる?」
「で、できるだけ早いうちにやめます」
「そのほうがええな。オレみたいに歳いって吸ってるとカラダに悪い。若いうちにやめないとやめれない。だから早くやめなさい。」
そして、学年主任は、私から取り上げたタバコとライターを返してくれました。「まずは、減らせ」と言ってくれました。そのあと、順次タバコ組は一回ずつ停学になりました。中1から6年間面倒見てくれたそのヘビースモーカーな学年主任も、もう亡くなりました。学校が体面を保ちたいだけなら、今村たちがタバコを吸っていると噂を聞いただけで荷物検査してめちゃめちゃ怒って、退学にすればいいのです。「未成年者の喫煙は違法だ、校則違反です。君は違反したのでさよならです。」と言えばいいでしょう。でも、先生たちはそうはしませんでした。もしそれをされていて、私が「タバコはダメ。ダメなことはしてはいけない」ということを素直に受け取れるような子供だったかというと、そうではなかった。それは、多くの人もそうなのではと私は思っています。
中高生には「オトナが体面を保ちたいがためにやったこと」と理解されるだけでしょう。中高生に「タバコは吸ったらあかん」というメッセージをちゃんと伝えるためには、これくらいのことをするのです。先生たちには、「私たちがイキってタバコを吸っていることは知っているが、それは本当はいけないこと。そして身体に良くないし、違法だ。わかっているよね?」ということを、私たちにどう伝えればよいかのセンスと技術がありました。なので、僕は理解することができたのです。当時は先生たちを「鬱陶しい」と思い、怒られるとムカついていたのですが、基本的には皆先生たちが大好きでした。卒業しても大好きです。子供を子供扱いしない先生の深い愛情、私たちへの敬意、正直であること、子供を諭すためのパッケージを突き付けないような技術は素晴らしいもので、私はそういう人たちに育てられました。
私は若い頃には若者と接する場をもっていました。塾講師として6年間、受験というギリギリのチャレンジをする子供たちに真剣に向かい合い、20代で議員になってからは大学生たちと接する全国組織のNPOを10年やってきました。私は何千人という子供たち若者たちに、敬意と愛情を持って接してきた誇りも、それで学んだ技術についての自信もあります。中高生にメッセージをきちんと伝えきる、それがどれほど技術と愛情と敬意がいるものか。私は、まず附属住吉小学校と甲陽学院の先生たちからそれを学びました。先生たちは愛情と敬意に溢れていて、そして、クソガキにメッセージするユーモアの技術も豊かでした。メッセージを伝えるには工夫をしなくてはいけません。私は良い教育を受けたため、子供たちにも還元したいと思いました。私を未だに先生と呼んでくれる人がたくさんいて、本気で取り組んできた経験に対する自信とプライドもあります。本気でやっている自身もあります。そのため、中高生に対しての私のメッセージに関しては、トータルでは問題はなかっただろうと思います。
なにやら、テレビの取材が甲陽の先生にもいったそうで、申し訳ないことしたなぁと思います。「いまむら、かわらんなぁ…」と先生たちも苦笑いでしょう。正面から不用意に工夫なく出されたメッセージは、彼らには通用しません。中高生をナメちゃだめです。あの年頃はオトナのウソに超敏感です。こんなこと、中高生を学校で相手にした先生たちにはアタリマエのことです。まずメッセージを伝えるためには、彼らに信用してもらえるオトナであることが相手に伝わらなければいけないのです。だから子供たちに対峙する人たちは、敬意を持って「先生」と呼ばれるのです。
議会について。
「ブログで批判した議員を揶揄した」的な意見については、そのつもりは全くないと応えたいです。なので、ブログの表現のうち、特に不適切だと指摘された部分については修正します。不用意な発言ととられて気分を害されたとしたら謝罪したいと思います。自分はこれくらいなら面白可笑しくくらいにとってもらえるかと思っていましたが、その感覚自体がズレていました。中高生に対してのメッセージには自信がありますが、ブログで書いたことのセンスについては情けないながら、上手くいっていなかったという反省があるので、そこは修正しようと思っています。
あの日、正直に言うとメッセージを伝える前に、「議員がいるなぁ…」とは思いました。しかし、主役は中高生たちです。中高生と話をした後に、ただ「市役所は君たちの居場所をつくるために頑張ります」「市役所は真剣に子供と向きあいます」と言っても意味がないと思っていました。また、子どもたちがいること以外の状況を気にして、彼らに対してコンセプトを変えるのは絶対ダメと考えました。彼らは市役所の人間である私たちを信用して、「怒られないめちゃくちゃできる場所がほしい」と正直に言ってくれました。それは私たちがオトナとして「ダメにきまっている」と言わないと思って、言ってくれたのです。「怒られたくない」といっても、そこまでめちゃくちゃやって迷惑をかける気持ちはないから、色々うるさく言われたくないと。そういう気持ちを、このオトナたちなら信用して良いかもと思い、信用して伝えてくれたのでした。なので、傍聴している市議会議員がいるからといって、メッセージを曲げたり緩めたりするのは彼らへの敬意を欠いていると思い、無視してメッセージを発しました。彼らが私たちを信頼してくれたかのように、彼らを信頼して私はメッセージを話したのです。本気で、そしてユーモアをもって。
私のメッセージは、われわれオトナを信用してメッセージを発してくれた中高生たちにたいして敬意を持って発せられるべきものであり、オブザーブしている市議会議員に対してではないです。メッセージの対象者ではなかったわけですから、市議会議員には響かなかったのかもしれませんが、それはしかたありません。傍聴の方がどう捉えるかはそれぞれでしょう。皆さんが取材をしていたとしたら、そのコンセプトもそれぞれです。私のメッセージは明確にその場にいた中高生に対して出しました。肝腎の参加した中高生がどう思ったか、敬意を損なわれたと感じたか、それは、子供のアンケートを見ていただければわかっていただけるはずです。彼らが終わってから、「市の会だと思って信頼して行ったら、市長が不良自慢した。すごく不愉快だった。」「西宮の市長たる者がそのようなクズ野郎だったとはすごくショックでした。」みたいなことを言っていたとすれば、私は彼らにメッセージを伝え損なったことになり、彼らが信頼して参加してくれたことを踏みにじることなので、謝罪し、発言を取り消すべきです。しかし、私はそうではないと思っています。アンケートを見るまでもなく、私はそのような子はいないだろうと思っていたし、後で話題になったことを知りアンケートを見ると、彼らは誰一人としてそういう感想を持っていませんでした。彼らの感想を「子供の感想」として無視するのは、彼らに対する敬意のない、大人として恥ずべき態度です。
私があの話をしたのは、あの場で彼らと話をして、彼らがこのメッセージを受け取るに足るセンスと能力を持っている、と判断したからです。自分がルールに対して少し逸脱したいと思うような気持ちを持っているのは彼らときっと同じで、それを超えてしまったけれども、そのままダークサイドに落ちていったたわけでもなく、色々な方々にものすごい迷惑をかけたのでもなく、上手くいくようにオトナたちは敬意をもって見てくれ、私たちへの愛情からくるメッセージを技術的に届けてくれたということを言いたかったのです。彼らの中に、私の話を聴いて「なんだあ、タバコ吸ってもいいんだあ」と思うような子はいないと断言できます。私の彼らに対する敬意と信頼によるものです。けっして一般論ではありません。大事なのは子供や若者への愛情と敬意。それを、ユーモアの範疇を超えてこれ以上掻き回すのは無粋だと、残念に思います。心を込めて本気で伝えたメッセージが、こんなふうに政治の話にされてしまって、あの日、真剣に議論してくれた中高生たちに申し訳ないなと思っています。私が中高生に対して不良自慢をしたという自覚が自分にもあり、事実だとしたら、それはものすごくみっともないことだと思うし、申し訳ないということが言えるのですが、一部取り上げられて書かれたらそうとも言えなくもないのですが、それは本意ではないし、ちゃんと対象である18人の中高生には伝わっている自信があります。
いっぽうで、私はむしろ、もしかしたらツルシにしてやろうと思って用意されたかものこの場で、「西宮市は子供に本気で向き合うまちづくりをしている」ということをあらためて発信できたことをありがたいとすら思っています。ただ、このビデオのすべてを使うことができないので、一部を使って「市長が開き直り」という番組はじゅうぶん作れるでしょう?それはご自由に。報道の自由万歳。あのイベントを通じて中高生たちに伝えたメッセージの一部を切り取って「市長が調子に乗って中高生に不良自慢をした」と表現することが可能なように、西宮が本気で子供施策をやっているというメッセージの一部を切り取って「市長が記者会見で開き直り」と表現することは可能でしょうね。ただ、あのイベントに参加してくれて西宮市役所からの本気のメッセージを受け取った18人の中高生たちが、その報道を見てどう思うか、よく考えてください。あんまり彼らの感覚をなめないほうがいいです。彼らは今、「あの時最後に話してくれたジーンズ履いた市長さんがフルボッコになっている」とびっくりしていると思います。改めて彼らに言いたいことは、彼らに出したメッセージは嘘ではないし、本気でお伝えしたかったことをお伝えしたと思っているし、彼らに伝えたい事は伝わったと私は今でも思っています。なので、新聞で書かれているからそうなのかなぁではなく、皆直接その場で私と話をしたうえで聞いているので、その時の感覚を大事にしてもらいたいと思います。
西宮市は「子育て世帯ではなく子供を中心としたまちづくりをします」と言っています。楽をしたい親や体面を保ちたい教師のためのまちづくりではなく、それと抵触してでも子供に敬意を持った、真剣に育ちを考えるまちづくりをします、ということです。西宮市で育った子供たちが大人になって自分の子供を授かった時に、「自分が育った西宮に、子供を生むために帰ってきたい」と思ってもらうコンセプトをいつも話しています。これは、それも大切なのですが所謂「子育てに優しいまちづくり」「子育てするなら西宮」というものとは違い、あえて「子育て」ではなく、「子どもが育つため」という言い方をすることで、「子供を中心に子供に良いかどうか考える政治」をしたいからです。私は「中高生は子供であり、わからないだろう」というような態度は絶対にとりたくありません。彼らも、私たちがそうだったように、どこかで育てばそこでの育ちが値打ちがあったなぁと言って大人になってから振り返ることはできるのです。なので、彼らが西宮で育ったこと、もしかしたら、西宮で中高生の時に雨の土日に市のイベントに行って、そこにジーンズを着た市長がいて、その人が言ったことが彼らにとって、「西宮で育つっておもしろいなぁ」「うれしいなぁ」「いいことだなぁ」という風に思ってもらえることは、本当に自分がコンセプトとしてやりたい、やるべきだと思える、まちづくりにおいて一番大事な理由なのです。あの場にいた中高生たち、この哲学の下に仕事をする休日出勤した職員、共感して手伝ってくれたNPO法人カタリバの若者たち、彼らを裏切られないので、私はあの場での発言については謝罪も撤回もすることはできません。
最後に。改めて、この場を借りて、あの雨の日に参加してくれて、私たちを信用してメッセージを発信してくれた中高生たちに心から感謝の意を伝えたいと思いますし、「だいじょうぶだ、あなたたちに伝えたいメッセージは変わらないよ」ということを伝えさせていただきたいと思います。
それと。タバコはハタチから。タバコは良くないです。それをどう伝えるかはそれぞれです。「ダメだよ」と言うだけでも良いもかもしれません。または、「タバコは20歳から」というシールを貼ることかもしれません。でも私がされたように、一旦わかった上で部屋与え、タバコ吸わせて、停学して、タバコを取り上げ、ニヤッと笑いながら返し、「少しずつタバコ減らせ」と言ってくれたメッセージの発信もあったのです。私はそれを受けたのです。的外れな報道を見て、全国から「高校生でタバコ吸った過去くらいいいじゃん!」みたいな激励が殺到して、こっちは戸惑っています。高校生のタバコはいけません。ただ、それをどう伝えるかの話なのです。