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西へと進んでいったアメリカ開拓民 ドナー隊の悲劇

華盛頓Webライター
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19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。

しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。

この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。

西へと進んでいったアメリカ開拓民

1840年代のアメリカ合衆国では、東部から西部のオレゴンやカリフォルニアへ移住する開拓者が急増しました。

多くの移民は「マニフェスト・デスティニー」と呼ばれる思想に触発され、北米全域を支配することが彼らの使命だと信じていたのです。

彼らはミズーリ州インディペンデンスを出発点にオレゴン街道をたどり、1日約15マイル(24キロ)の速度で、大陸分水嶺を越えるために4~6か月かけて旅をしました。

ランスフォード・ヘイスティングズは、カリフォルニアへの入植を促進するため、移民向けのガイドブックを出版したのです。

この本には、大盆地を直接横断する新たな経路が紹介されており、ワサッチ山脈を抜けてグレートソルトレイク砂漠を横断するルートが提案されました。

しかし、ヘイスティングズ自身がこの道を試したのは1846年が初めてで、その時も馬車は伴っていなかったのです。

カリフォルニアへの旅で最も困難な部分は、シエラネバダ山脈を横断する最後の100マイル(約160キロ)です。

この地域は標高が高く、豪雪地帯としても知られています。

それゆえ開拓者たちは、移動の時期を慎重に選び、春の泥濘や秋の早い雪に備えなければならなかったのです

開拓民が次々と合流して形成されたドナー隊

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1846年春、ミズーリ州インディペンデンスからカリフォルニアを目指して、西部へ向かう500近い幌馬車が出発しました。

その後尾には、ドナー家とリード家を中心とした一団が続いていたのです。

ジョージ・ドナー率いる家族は総勢32人であり、9台の幌馬車に乗り込んでいました。ドナー家は、彼の弟ジェイコブ一家や6人の御者と共に旅を続けたのです。

ジョージ・ドナーは長年アメリカ南部から西部へと移住を続けてきた人物であり、最終的にカリフォルニアを目指すことを決意していました。

リード家は、45歳のアイルランド系移民ジェイムズ・リードが率いていました。

彼の妻マーグレットや子供たち、そして末期の肺結核を患っていたマーグレットの母サラ・キースも同行したものの、サラは5月28日に旅の途中で亡くなり、路傍に埋葬されました。

ジェイムズ・リードは、カリフォルニアの気候が妻マーグレットの健康を改善することを期待し、また経済的な困難からの脱却を図ろうと西部への移住を決めていたのです。

一行は出発後、ミズーリ州を離れてすぐにウィリアム・H・ラッセルを名目上のリーダーとする別の大規模な一団と合流し、共に旅を続けることになりました。

彼らは6月16日までに450マイル(約720キロ)を進み、ワイオミング州ララミー砦に向かう途中で大雨や河川の増水により遅れを余儀なくされたのです。

しかし、タムセン・ドナーはこの時点での困難について「この先もっとひどいことでもなければ、大した問題ではない」と楽観的に友人へ手紙を書いています。

旅の途中、ドナー・リード一団にはさらに多くの家族が合流しました。

ラヴィナ・マーフィーは、13人の大家族を率いて参加し、ウィリアム・エディ一家、ブリーン家、ドイツ系移民のルイス・キースバーグ一家なども加わったのです。

それぞれの家族が幌馬車に乗り込み、西部の未開の地を目指して過酷な旅を続けていったものの、その道中には数々の困難が待ち受けていました。

この時点で旅はまだ順調に見えていたものの、これから彼らが遭遇する試練は予想を超えるものでした。

シエラネバダ山脈を越えるという過酷な道のりが、彼らの前に立ちはだかろうとしていたのです。

それぞれの家族が抱える問題や健康状態、限られた物資、そして旅の終盤に差し掛かる中で、幾多の困難に直面していくことになります

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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