政治資金の規制も罰則も「政治とカネ」の解決にはならないのにそれを繰り返す日本
野党が「政治改革国会」と位置付ける通常国会が始まった。東京地検特捜部が自民党派閥の政治資金パーティ裏金事件を摘発したことから、野党は自民党を攻撃する絶好の機会とみて「政治とカネ」を追及している。
国会の論戦は始まったばかりだが、野党が主張するのは「企業・団体献金の禁止」や「連座制の導入」で、規制と罰則を強化すれば「政治とカネ」は解決されると考えているようだ。しかしロッキード事件以来、何度も「政治とカネ」の追及を見てきた私には、規制や罰則を強化しても問題が解決するとは思えない。
むしろ規制や罰則によって政治資金は闇に潜り、国民の目の届かない裏の世界になったというのが私の実感だ。にもかかわらず日本政治は今回もまた同じことを繰り返そうとしている。「企業・団体献金の禁止」や「連座制の導入」で解決できると考えるのはなぜか、問題の本質を取り違えているのではないか。それを考える。
1月31日の日経新聞に「米国大統領選挙の政治マネーに変化」という記事が掲載された。日経新聞がFEC(連邦選挙委員会)の資料を調べたところ、共和党のトランプ前大統領は23年12月までに総額1億2500万ドル(約185億円)の資金を集め、資金獲得レースで2位になった。
内訳は圧倒的に一般市民からの小口献金で、総額の半分に当たる6000万ドルが中低所得者層からの個人献金だ。そしてトランプの集金の特徴は、本人が集めた金額が共和党と共同で集めた金額を上回っていることである。
これに対し民主党のバイデン大統領は、1億3000万ドル(約192億4千万円)を集めてトランプを上回ったが、民主党と共同で集めた資金が多く、組織力を動員した結果と言える。またUAW(全米自動車労組)の支持を取り付けるなどバイデンは組織型選挙が中心だ。
一方で今回の選挙の特徴は、献金総額が100万ドル(約1億5000万円)を超える富裕層の大口献金が、トランプにもバイデンにも向かっていないことである。トランプには全体の6%、バイデンには17%しか富裕層の献金がない。
富裕層の献金額の37.5%は元国連大使のヘイリー共和党候補、23.1%はフロリダ州知事のデサンティス共和党候補である。しかし富裕層が献金する2人の候補者はいずれも支持率でトランプに大きく水を開けられ、デサンティスは大統領選撤退を表明した。
この報道を見ると、組織型選挙を推進するバイデンに対し、トランプは富裕層の支持より、中低所得者層の支持を得ることに力を入れている。従ってトランプは富裕層を有利にするより中低所得者層を有利にする政策を訴えることになる。
それが共和党員の圧倒的な人気を得ているのだ。米国の大統領選挙はかつての共和党と民主党の、企業対労組、富裕層対低所得者層という対立構図が変化していることを示している。それが分かるのは政治献金が国民の目にさらされているからだ。
ところが日本では政治家が献金を政治資金収支報告書に記載しない「裏金作り」が常態化している。これでは国民は政治資金の実態を把握することも、そこから生まれる政治の変化も読み取ることができない。では「企業・団体献金の禁止」や「連座制の導入」で政治資金を透明にすることはできるのか。
そもそも政治資金規正法は日本が米国の占領下にあった1948年にできた。その頃の米国は日本を民主化しようとしていたから、政治資金規正法にも民主主義の思想が盛り込まれている。注目すべきは「規正法」であり「規制法」ではないことだ。
つまり民主主義政治では政治資金に規制を設けてはならず、政治資金の「入りと出」をそのまま正しく国民に公開しなければならないとされていた。国民は政治資金の「入りと出」を見て、個々の政治家が国民のために働いているかどうかを判断する。
政治家が誰からどれだけ献金を貰い、それを何に使ったかが分かれば、国民はそれを選挙の判断材料にすることができる。重要なことは「透明性」であり、政治資金の規制や罰則を強める事ではない。それが政治資金規正法の趣旨だった。
この法律の下で、かつての日本は民主主義のコストを個人ではなく企業と労働組合に分担させた。そのため企業や労働組合が政治に寄付する費用を課税対象にしなかった。その一方で国民の寄付には税金をかけ、国民が政治献金する習慣を排した。
そこが米国と日本の決定的に違うところである。米国では寄付をすればその分が税金から控除される。つまり税金として国に納めるか、寄付をして社会に貢献するかは個人が選べる。だから大金持ちは自分の名前を付けた公園を作り、橋を作り、劇場を作ってそれを地域社会に寄付した。
しかし官僚国家の日本はそれを認めない。官僚は民間が勝手に公益事業に乗り出すことを許さない。国民の税金はすべて国家に納めさせ、その配分を決めるのは官僚である。すると国民は官僚にひれ伏し、それが官僚に権力を与える。そのため日本には寄付文化が育たなかった。
その結果、国民には自分たちが政治を支え、民主主義を支えるという意識が生まれない。政治献金は一部の企業や団体が行えば良いという感覚だった。昔の与党議員は企業回りをして献金をお願いする。野党議員は組合にお願いするのが常だった。
そのため国民に政治資金の「透明化」を求める意識も生まれない。政治資金規正法はあっても政治がクリーンになることはなく、田中角栄元総理が「金脈問題」を追及されて退陣した後、急きょ総理に指名された三木武夫氏は派閥が弱小だったため、「田中金権政治」との違いを見せて人気を得ようと、政治資金規正法の改正に乗り出した。
政治献金に上限規制を設け、個人献金は5万円以下なら収支報告書に名前を記載しなくとも良いが、それ以上は記載を義務付けた。また「企業・団体献金」をやめて政治資金パーティで金を集めることを奨励し、20万円以下は収支報告書に記載の必要はないとした。
これで「規正法」の精神は失われ、政治資金の規制と罰則強化が主流の考え方になった。同時にそれが政治資金を闇の世界に潜らせた。個人は5万円以下、パーティは20万円以下で収支報告書に記載の必要がなくなれば、他人名義で献金することが増えたのである。
そしてロッキード事件で田中元総理が逮捕されると、「政治とカネ」は国民すべてを巻き込む一大興奮状態を作り出す。裁判が終わっていない「推定無罪」の段階で、野党は国会に「議員辞職勧告決議案」を提出し、メディアと国民はこぞってそれに同調した。
私は東京地検特捜部のロッキード捜査を取材した記者の一人である。特捜部はロッキード社の秘密代理人児玉誉士夫から政界に流れた23億円の行方を何一つ解明していない。だから田中逮捕に私は違和感がある。しかし国民は田中逮捕に怒りを噴出させ、東京地検特捜部を「最強の捜査機関」と絶賛し、日本はまるで全体主義になった。
日本の軍国主義時代、大日本帝国議会で「反軍演説」を行った斎藤隆夫を、帝国議会は除名処分にしたが、民主主義社会で政治家の出処進退を決めることができるのは本人と有権者だけだ。ところが当時の野党とメディアと国民は、こぞって田中の議員辞職を求めたのである。
山本七平氏が書いた『なぜ日本は変われないのか』(さくら舎)を読むと、日本には官憲主義と全体主義が繰り返されるだけで民主主義がないと書かれている。官憲主義も全体主義も民主主義と対立するイデオロギーと考えられるが、実は官憲主義と全体主義は全く異なる両極端の思想だという。
官憲主義とは、政治を一部の集団に委任させ、その限りにおいて国民にはすべての自由が保障される。ただし国民は非政治的でなければならない。まるで政治資金を企業と労働組合に委ね、国民は政治献金など関係ないと思っていた時代の日本のようだ。
これに対して全体主義は、すべての国民が政治的でなければならず、究極的には国民全体を一つの政治思想で統括することをいう。つまり官憲主義の対極である。この2つが日本では13~15年周期で繰り返されてきたと山本氏は主張する。
例えば60年安保は、官憲政府が公認した日米安保条約を、全体主義的民衆運動が拒否した。その結果、岸信介総理は失脚しても官憲政権の崩壊にはならず、むしろ全体主義的運動が政治的自由を圧殺するので、かえって官憲主義が進んだという。
つまり国民が支えなければならない政治献金を一部の者に委任していた官憲主義の時代があり、そこにスキャンダルが発覚すると、国民は怒って全体主義的となり官憲体制が作った制度を拒否するが、その結果、政治的自由が圧殺され、かえって官憲主義が進むというのだ。
これはこれまで私が見てきた「政治とカネ」の繰り返しに重要な示唆を与えてくれる。民主主義とは無縁の官僚主義に安住してきた国民が、政治資金のスキャンダルを見て怒り、野党とメディアと国民が全体主義的に規制と罰則を強化せよと声を上げた。その結果、政治的自由が圧殺される恐れが出て、再び官僚主義に戻って国民はそれに安住する。それが繰り返されてきたのである。そこに民主主義はない。
私は野党が主張する「企業・団体献金の禁止」も「連座制の導入」も必ず抜け穴が見つけられ、政治資金の透明化にはつながらず、いずれも意味がないと考えている。
そして一部の幹部議員に支給される「政策活動費をすべて透明化しろ」と言うのもありえない。民主主義政治は理性と性善説を建前にするが、古今東西そんな政治が存在したことはない。それを信ずる政治家がいるとすればその国の政治はすぐに崩壊する。
民主主義政治はできる限り国民に政治の実像を見せて判断させる必要はあるが、政治のすべてを見せる訳にはいかない。それを理解したうえで、しかし日本の政治には裏が多すぎる。政治資金は規制と罰則によって闇の世界に潜ってしまった。
それを闇の世界から表に引き出さなければ、日本は山本七平氏が言う官憲主義と全体主義の繰り返しになる。しかし日本の行政権力も司法権力も国民に判断させるより、自分たちがコントロールしなければ政治はおかしくなると考えている。
そのため野党の「企業・団体献金の禁止」や「連座制の導入」は政治の力を弱め、自分たちの力が強まるので賛成するはずだ。そして「政治とカネ」のスキャンダルが永続し、それに国民が怒りの声を上げる状況を続けさせたがっているように見える。
野党もメディアも国民も同じことを繰り返すのをやめて、何が問題の本質なのかを考え直してもらいたい。通常国会を「政治改革国会」と位置付けたのだから、行政権力や司法権力に利用されるのではなく、この機会を政治の力を強める本格的な政治改革の第一歩にしてもらいたい。