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子だくさんの戦国武将3人。なぜ、そんなに子供がたくさんいたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康像。(写真:イメージマート)

 少子化が大問題となっている現代、その解決は喫緊の課題である。戦国武将の中には、たくさんの子供がいた者もいた。そのうち3人を取り上げ、理由などについて考えることにしよう。

◎伊達稙宗(1488~1565)

 稙宗は正室のほかに、側室が5人もおり、その間に男子を14人、女子を6人ももうけていた。父の尚宗はそうでもなかったので、驚きである。なお、正室は蘆名盛高の娘で、側室は亘理宗隆の娘らだった。政略結婚だったのは、疑いないだろう。

 稙宗に子が多かったのには、もちろん理由があった。たとえば、次男の義宣は大崎氏の養子に送り込んでいた。七男の晴清も葛西氏の養子に送り込まれていた。女子については、蘆名盛氏、田村隆顕といった有力諸氏の妻になっていたので、政略結婚の手駒だったのである。

◎織田信秀(1511~1552?)

 信秀は正室のほかに、4人の側室がいたといわれている。その間に男子を12人、女子を15人もうけたという。男子で有名なのは、のちに天下人となった信長、茶人として名を馳せた長益(有楽斎)になろう。女子では、お市の方を挙げることができる。

 女子の嫁ぎ先は、三女が斎藤道三の側室になったといわれている。これは、信長の妻として、道三の娘(濃姫、帰蝶)を迎えたからだった。お市の方は、浅井長政の妻になった。ともに政略結婚であるが、ほかの女子には目立った嫁ぎ先がない。

◎徳川家康(1543~1616)

 家康は正室のほか、21人の側室がいたといわれている。その間に男子を11人、女子を5人ももうけたという。このほか、養子だけでも3人、養女が23人もいたのだから驚きである。しかも、家康のご落胤と伝わる男子も数多くいる。

 女子の嫁ぎ先としては、次女の督姫の北条氏直、池田輝政が目立つ。家康は家臣らから養女を迎え、政略結婚の手駒として使った。たとえば、家康は本多忠勝の娘(小松姫)を養女とし、そのまま真田信之に嫁がせた。女子の数が足りなければ、養女で賄ったのである。

※側室や子供の数には諸説あります。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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