大坂夏の陣の前哨戦で、なぜ豊臣方は堺を焼き討ちにしたのか。その納得の理由
大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂夏の陣が終結し、徳川方が豊臣家に勝利した。大坂夏の陣の前哨戦で、豊臣方は堺に乱入すると焼き討ちにした。その理由を考えてみよう。
慶長20年(1615)4月26日未明、豊臣方の大野治房は後藤基次と2千の兵を率いて大和国へ出陣した。徳川方が河内方面に在陣したことを受け、奈良から迂回して襲撃を試みたと考えられる。
治房は大和国へ侵攻すると、徳川方の筒井定慶(正次)が籠もる郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃した。定慶は1千人の兵で籠城していたが、兵力で劣っていたので、ただちに城を放棄して逃亡した(『駿府記』)。
首尾よく郡山城を奪取した治房は勢いに乗じて、4月27日に奈良を目指した。奈良で守備を任されていたのは、徳川方の水野勝成が率いる軍勢である。
これを知った治房は、戦うことなく後退し、ついに郡山城まで撤退した。その後、治房はせっかく手に入れた郡山城を放棄すると、周囲に火を放ちながら大坂へと撤退したのである(『大坂陣日記』など)。
治房が大坂へ引き返したのは、率いる軍勢が少数でもあり、奈良方面で交戦し、同時に滞在期間を長く取られるのを嫌ったためであろうと考えられる。
治房の大和侵攻によって、郡山だけでなく、龍田(奈良県三郷町)、法隆寺(同斑鳩町)も火の海になったという。特に、法隆寺は堂宇がことごとく焼き払われるなど、被害が甚大だった(『駿府記』)。
4月28日、治房は塙直之ら諸将を率い、約3千の軍勢で大坂城を出陣した。先鋒隊の直之は、小出吉秀が守備する岸和田城(大阪府岸和田市)をすぐさま攻撃し、一進一退の攻防を繰り広げた。
一方の治房は堺(同堺市)に入り、徳川方に与したという理由だけで堺を焼き払ったのである。自治都市として知られた堺も、例外なく戦火に呑み込まれた。治房は堺だけでなく、住吉大社(大阪市住吉区)などにも放火した。
豊臣方が堺や住吉などの港湾都市を攻撃した理由は、徳川方の流通経路を遮断するためだったといわれている。つまり、徳川方が兵糧や武器を自陣に運び込むのを阻止しようとしたのである。
一方、徳川方には水軍を率いる向井忠勝が海上防衛を行っており、豊臣方の兵糧船を拿捕したという。互いに相手の兵站を断とうとしたのである。
『日本切支丹宗門史』によると、当初、堺は秀頼の保護下にあり、合戦が始まると秀頼の軍勢によって、食糧を強奪され金品を要求されたという。しかし、その後に家康が堺に侵攻することは、十分に予測できた。
そして、堺の人々は自分たちが秀頼に与したことを家康が知って、怒りを受けることを恐れた。そこで、徳川方の兵を堺に引き入れたのだが、そのことが秀頼の逆鱗に触れて、結果的に堺は焼き払われたという。
治房が堺を焼き払ったのは、堺が徳川方に与したので、その見せしめであろう。戦後、治房は堺を放火した罪に問われ、火刑に処されたのである。まさしく因果応報だった。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)