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徳川方の諸将が恐れた、真田信繁の「赤備え」には、どういう由来があったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、真田信繁が「赤備え」の将兵を引き連れて出陣していた。信繁の「赤備え」には、どういう由来があったのだろうか。その点について、考えることにしよう。

 信繁と子の大助は、「赤備え」の軍装で茶臼山に着陣したという(『大坂御陣山口休庵咄』)。「赤備え」といえば、信繁の専売特許のように思えるが、どのような軍装だったのだろうか。

 そもそも「赤備え」という軍装は、甲斐の戦国大名の武田氏配下の飯富虎昌が初めて使用し、その後は山県昌景が使用したという。武田氏は軍制を細かく定めており、その中には武具や兵装も含まれていた。「赤備え」とは、具足などの軍装すべてを赤一色に統一したものである。

 真っ赤な軍装で身を包んだ、「赤備え」の武田の部隊が攻め込んでくると、大きな視覚的な効果もあり、敵兵は恐怖したといわれている。

 武田氏の「赤備え」があまりに強かったので、「赤備え」には強いというイメージが備わった。「赤備え」は、真田家の専売特許ではなかったようだ。とはいえ、信繁の父の昌幸も、甲冑と指物には赤を用いていたことが確認されている。

 天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、武田氏旧臣は徳川四天王の井伊直政の配下となった、その後、直政は軍装を武田氏のならって「赤備え」で統一した。

 直政の率いる軍勢は「井伊の赤鬼」といわれ、敵兵から恐れられたという。ちなみに井伊家では、幕末に至るまで「赤備え」の軍装を採用し続けた。

 信繁の「赤備え」を確認しよう。信繁は緋縅の鎧(緋に染めた革や組糸を用いたもの)を身につけると、鹿の角を前立にした白熊(ヤクの尾の毛)付の兜をかぶっていた。秘蔵の川原毛(朽葉を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒く、背筋に黒い筋があるもの)の馬には、金覆輪の鞍が用いられたという。

 鞍には真田家の旗印・六連銭の紋が描かれ、紅の厚総(馬の頭や胸や尻にかける組紐)が掛けられていた(「幸村君伝記」など)。これだけ目立つ真っ赤な軍装ならば、遠くから一目見ただけで、信繁とわかったに違いない。

 現在、大坂の陣を描いた屏風絵は、いくつかが伝わっている。信繁は大坂の陣で獅子奮迅の活躍したので、屏風絵で一際目立って描かれているものがある。

 信繁の「赤備え」は、徳川方を威嚇する大きな効果があった。むろん、そうした屏風絵は戦後になって描かれたので、信繁の「赤備え」は実際に出陣した人に聞き取りを行い、描いたものと推測される。

 歴戦の勇士を揃えた越前松平氏の将兵は、赤い躑躅の華が咲き乱れたような信繁が率いる「赤備え」を目にすると、恐怖で体を震わせたという(『武徳編年集成』)。

 松平忠直は湯漬けを食べながら、「飯を食ったら餓鬼道へ落ちないので、死出の山も越えるのはたやすい」とおどけたというエピソードが残っているほどだ。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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