【富田林市】大発見!須賀に大阪狭山市の飛び地が今もなぜここに、そしてどんなところか調査してみました
世界的にある不思議なものとして、「飛び地」と呼ばれるものがあります。国や市町村などの自治体の一部が、他の自治体にまるで飛んでいるかのようにあるからそう呼ばれるものですが、実は富田林にも飛び地があります。
その飛地はこちらです。南海滝谷駅の西側、須賀地域の中に「東茱萸木(ひがしくみのき)3」という表記の場所があります。ちょうど緑色で囲まれたところですね。
別の地図を見ても、やはり飛び地になっています。
では、飛び地の住所、大阪狭山市東茱萸木3はどういうところか調べてみると、次のように表示されています。
ちょうど西除川の東側にあり、富田林市と接していて南北に長い地域だとわかります。そのさらに南側にその町の飛び地があるわけですね。
ということで、さっそく現地に行ってみました。これは南海滝谷駅近くにある踏切です。
踏切りから中高野街道沿いに南方向に歩くと飛び地への入り口に行けます。
街道から右側に細い道がつづいており、それをまっすぐに歩いた先が大阪狭山市の飛び地です。
飛び地が見えてきました。ブランコが見えます。
なんとその飛び地は、須賀西ちびっこ老人憩いの広場という名前の公園になっていました。
この広場になっている大阪狭山市の飛び地は、このように森と宅地に挟まれるようなところにあります。
ブランコやすべり台などがあり、子どもが遊ぶのには最適な場所ですね。
公園利用者の注意書きです。これを見ると、なぜか富田林市となっています。ということは、実際には大阪狭山市の飛び地ではないという意味なのか。もしくはかつては飛び地だったものが、今は富田林市内に編入されたのでしょうか。
そこで、富田林市農とみどり推進課みどり公園係の方に質問してみました。すると次の回答をいただきました。
つまり今でもここは大阪狭山市の飛び地であることには間違いないようです。ただ現在整備して使われている「須賀西ちびっこ老人憩いの広場」という公園そのものは、富田林市が管理しているということですね。
ただ、なぜこの地だけが大阪狭山市の飛び地なのかという理由は不明とのこと。
地番が大字半田とのことなので、大阪狭山市が旧河内国丹南郡半田村の当時からそうなっていた可能性があります。
そこで、大阪狭山市の担当の方にも質問をしたところ、大阪狭山市教育委員会教育部歴史文化グループの方から次の回答をいただきました。
これは、本当に興味深い回答をいただきました。どうやら江戸時代初期に茱萸木新田が開発される前から、半田村の人が西除川の東の谷筋を開発した可能性があったというのです。
1619年ということは豊臣氏が滅ぼされた大坂の陣から数年後のことですから、すごい記録が出てきましたね。
ちなみに半田村の名前が残る大阪狭山市半田は次の範囲になっています。
現在の飛び地が江戸時代の旧半田村に所属する農地として開墾されたとき、まだ現在の富田林市須賀に該当する地域にはなにも開墾されていなかったのかもしれませんね。
その後丹南郡池尻村・半田村・東野村が、1889(明治22)年に合併して狭山村となり、狭山町を経て、大阪狭山市となってからも、半田村で開拓した農地がそのまま飛び地として今まで残ったということのようです。
ということで、富田林市内にある飛び地をレポートしました。現在も大阪狭山市の飛び地ですが、公園そのものは富田林市が管理しているので、公園内で何か問い合わせる必要があれば富田林市に問い合わせましょう。
須賀西ちびっこ老人憩いの広場
住所:大阪府富田林市須賀3丁目13(東茱萸木3丁目飛び地)
アクセス:南海滝谷駅から徒歩4分
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