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徳川家康の次男・秀康が双子だったという話は、信用してよいのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公の徳川家康には、嫡男の信康のほかに、秀康という次男がいた。秀康は双子だったと言われているが、信用していいのか考えてみよう。

 秀康は、家康の次男として誕生した。母のお万の方は、家康のお手付きだったと言われており、正室の瀬名(築山殿)から追放された。一説によると、お万の方は素っ裸にされ、城内の木に括りつけられたという。

 幼少時の秀康は、於義丸と名付けられたが、家康から忌み嫌われた。それゆえ、秀康は3歳になるまで家康と対面を果たせなかったという。とはいえ、この話が本当なのかは、決して明らかではない。

 天正7年(1579)、家康は信康を自害に追い込んだので、本来は秀康が有力な後継者だった。しかし、秀康は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後の和睦の条件として、羽柴(豊臣)秀吉の養子になった。家康の後継者は、三男の秀忠になったのだ。

 なぜ次男の秀康ではなく、三男の秀忠が後継者になったのか、いささか不審の念を抱かざるを得ない。いったい後継者をめぐる背景には、どのような事情があったのだろうか。

 『柳営婦女伝系』という史料によると、秀康には双子の弟がいたという記述を確認できる。弟の名は、永見貞愛といった。永見というのは、母のお万の方の実家の名字である。永見氏は、知立神社(愛知県知立市)の神主でもあった。

 当時、双子は「畜生腹」といって非常に忌み嫌われていた。動物のような多産とみなされたのだ。家康は、秀康が「畜生腹」であるがゆえに嫌っていたのであるが、むろん現在ではそのようなことはない。迷信である。

 貞愛は死んだことにされ、母の実家の永見家に預けられた。成長した貞愛は、知立神社の神主職を継いだといわれている。しかし、慶長9年(1604)、貞愛は31歳の若さで人知れず亡くなったが、本当に双子だったのかは判然としない。

 当初、豊臣家の養子になった秀康は、のちに結城家の養子に出された。最終的には越前国の大名になったが、梅毒が原因で亡くなったという。秀康が家康の後継者になれなかったのは、母の家格が低かったからだろう。よくある話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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