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ある若手騎手の「100勝するまでは」と誓った事と、突然の訃報を受け、思う事とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
5月18日に騎乗していた永野猛蔵騎手

100勝するまではこのままでと誓った事

 チェルヴィニアの勝利で幕を閉じた今年のオークス(GⅠ)。その後の第12R・三峰山特別に騎乗し、この週末の競馬を終えた永野猛蔵。調整ルームに預けていた携帯電話を受け取り、スイッチを入れた。すると、実家の母からLINEが入っていた。
 「『至急、電話をください』と記されていたので、かけました」
 すると、思わぬ言葉を伝えられた。

5月19日、東京競馬の第12Rに騎乗した永野猛蔵騎手(1番左)。この後、調整ルームに戻り、携帯電話のスイッチをオンにすると……
5月19日、東京競馬の第12Rに騎乗した永野猛蔵騎手(1番左)。この後、調整ルームに戻り、携帯電話のスイッチをオンにすると……


 2002年9月、新潟で生まれた永野。自営業で競馬とは無縁の家庭だったが、父方の祖父が競馬のファン。新潟競馬場へ幾度か連れて行かれるうちに、競馬場に親しみを持った。小学5年生になると、その新潟競馬場で乗馬を始めた。同時に、自発的に競馬を見るようになり、やがて騎手に憧れた。
 「中学の時にはジョッキーベイビーズで決勝まで進み、東京競馬場で乗れました。最下位(8着)だったのですが、負けた事で『いつか騎手になってここに戻って来て、勝ってやろう』と思うようになりました」

15年のジョッキーベイビーズに出場した際の永野猛蔵少年(黒ヘルメット)
15年のジョッキーベイビーズに出場した際の永野猛蔵少年(黒ヘルメット)


 21年には、美浦・伊藤圭三厩舎から騎手デビューを果たした。
 「100勝するまではこのまま丸刈りで行きます!」と誓った3月6日の中山競馬場。新型コロナウィルス騒動のせいで無観客開催となる中、デビュー戦でいきなり1勝目をマークしてみせた。
 「師匠の伊藤先生が勝てる馬を用意してくださいました。感謝しかありません」
 同年5月8日には、夢にまで見た東京競馬場での勝利を挙げた。それらを含め、デビュー年は29勝の活躍をした。しかし……。
 「同期の小沢(大仁)君と勝利数を争っていたのですが、最後は負けてしまいました。目標だった30勝にも1つ及ばず、悔しい気持ちでいっぱいでした」

100勝するまでは丸刈りで、と誓う永野猛蔵騎手
100勝するまでは丸刈りで、と誓う永野猛蔵騎手

度重なる怪我

 2年目の22年は1年目を上回る30勝を挙げた。しかし、2月と7月に落馬し、それぞれ右の鎖骨と左の鎖骨を骨折。休養を余儀なくされた。
 「休んでいる間、競馬を見るのが辛かったです」
 「怪我で休む事のないように……」と誓って臨んだ23年は、年明け早々に騎乗停止処分を受けた。
 「2年目でフェアプレー賞を取れたのに、迷惑をかける騎乗をしてしまい、反省しました」
 それでもGⅠ(天皇賞・春)に初騎乗を果たすなど、経験値を確実に増やした。
 「ただ、減量がなくなった事もあり、勝ち鞍は減ってしまいました(24勝)」
 だから、今が踏ん張りどころという強い意志を持って今年、24年を迎えた。その正月開催の中山。いきなりアクシデントに見舞われた。
 「木曜(1月4日)のトレーニング中に違和感がありました。前年の年末に鎖骨のプレートを外したのですが、そのせいか左側の力が入らない感じだったんです。でも、金曜、土曜と調教には乗れたので『筋が伸びちゃったのかな?』くらいに思っていました」
 だから週末のレースにも騎乗した。ところが日曜に乗った最初のレースで、それは起きた。
 「レース中、ポキッて、なったのが分かりました」
 プレートを外したばかりの左の鎖骨が再び折れた。下馬をしてすぐに報告。病院へ直行した。
 「2日後くらいに手術をして、1カ月休みました。落ちたわけでもないのに、正月早々から骨折してしまい、悔しい気持ちでいっぱいになりました」

 復帰出来たのは2月3日。すると、その日にいきなり復帰後初の、そして今年初の勝利を記録した。
 「休みの間もしっかり競馬を見て勉強していました。リハビリも順調にいき、怪我の影響はなく、体の動きも良い感じでした」

今春の復帰後初勝利(手前)
今春の復帰後初勝利(手前)

突然の訃報

 そのような良い状態はその後も続いた。
 そんな5月19日の事だった。競馬を終え、携帯のスイッチを入れると実家の母から「至急、電話をください」とのLINEが入っていた。すぐに連絡した。すると、思いもしない言葉が伝えられた。
 「父が前日の土曜日に急に他界していた事を告げられました」
 驚いた。2年前に1度入院こそしたが、その後は普通に生活をしていた。この週も永野が金曜日に調整ルームに入る前までは何事もなく普段通り。正に急逝だった。これだけの事態の場合、家族もJRAを通せば本人と連絡を取れるようだが、週末の競馬が終わるまではあえて連絡を取らなかったそうだ。

5月18日の東京競馬で騎乗していた永野猛蔵騎手。この日、まさか父が他界しているとは夢にも思わなかった
5月18日の東京競馬で騎乗していた永野猛蔵騎手。この日、まさか父が他界しているとは夢にも思わなかった


 「まだ50歳。祖父より先に逝ってしまいました。生前は凄く応援してくれていました。競馬場に応援しに来てくれたし、来られない時でも、勝てば必ずお祝いの連絡をくれました。負けても激励の連絡がありました。勿論、怪我をしている間もずっと心配してくれていました」
 とんぼ返りで実家へ戻り、葬儀に参列したが、あまりに急な事で、未だに実感がわかないと語る永野。これから勝っても負けてももう連絡が来なくなる事で、淋しさが込み上げるのかもしれない。
 「僕が出来る事は変わらず精進を続け、1つでも多く勝てるジョッキーになるだけです。そうする事が父への1番良い報告になると思うし、心労でまいっている母を元気づける手段にもなると考えています」
 その通りだろう。裏を返せば、そういった努力を怠って成績不振となれば、お父様はゆっくりと休めないし、お母様の気持ちも癒えないだろう。
 6月2日にはヴァズレーヌで1着。父が他界した後の初勝利は、通算100勝まで残り7つとなる勝ち鞍になった。この夏は、地元の新潟ではなく「人脈を広げ、経験値も増やすために北海道を主戦場にする」と言い、早速、今週から函館で騎乗する。空の上ではお父様が、新しい髪形を楽しみにしている事だろう。

父が亡くなった後の初勝利を飾った永野猛蔵騎手
父が亡くなった後の初勝利を飾った永野猛蔵騎手

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)















ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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