ある若手騎手の「100勝するまでは」と誓った事と、突然の訃報を受け、思う事とは?
100勝するまではこのままでと誓った事
チェルヴィニアの勝利で幕を閉じた今年のオークス(GⅠ)。その後の第12R・三峰山特別に騎乗し、この週末の競馬を終えた永野猛蔵。調整ルームに預けていた携帯電話を受け取り、スイッチを入れた。すると、実家の母からLINEが入っていた。
「『至急、電話をください』と記されていたので、かけました」
すると、思わぬ言葉を伝えられた。
2002年9月、新潟で生まれた永野。自営業で競馬とは無縁の家庭だったが、父方の祖父が競馬のファン。新潟競馬場へ幾度か連れて行かれるうちに、競馬場に親しみを持った。小学5年生になると、その新潟競馬場で乗馬を始めた。同時に、自発的に競馬を見るようになり、やがて騎手に憧れた。
「中学の時にはジョッキーベイビーズで決勝まで進み、東京競馬場で乗れました。最下位(8着)だったのですが、負けた事で『いつか騎手になってここに戻って来て、勝ってやろう』と思うようになりました」
21年には、美浦・伊藤圭三厩舎から騎手デビューを果たした。
「100勝するまではこのまま丸刈りで行きます!」と誓った3月6日の中山競馬場。新型コロナウィルス騒動のせいで無観客開催となる中、デビュー戦でいきなり1勝目をマークしてみせた。
「師匠の伊藤先生が勝てる馬を用意してくださいました。感謝しかありません」
同年5月8日には、夢にまで見た東京競馬場での勝利を挙げた。それらを含め、デビュー年は29勝の活躍をした。しかし……。
「同期の小沢(大仁)君と勝利数を争っていたのですが、最後は負けてしまいました。目標だった30勝にも1つ及ばず、悔しい気持ちでいっぱいでした」
度重なる怪我
2年目の22年は1年目を上回る30勝を挙げた。しかし、2月と7月に落馬し、それぞれ右の鎖骨と左の鎖骨を骨折。休養を余儀なくされた。
「休んでいる間、競馬を見るのが辛かったです」
「怪我で休む事のないように……」と誓って臨んだ23年は、年明け早々に騎乗停止処分を受けた。
「2年目でフェアプレー賞を取れたのに、迷惑をかける騎乗をしてしまい、反省しました」
それでもGⅠ(天皇賞・春)に初騎乗を果たすなど、経験値を確実に増やした。
「ただ、減量がなくなった事もあり、勝ち鞍は減ってしまいました(24勝)」
だから、今が踏ん張りどころという強い意志を持って今年、24年を迎えた。その正月開催の中山。いきなりアクシデントに見舞われた。
「木曜(1月4日)のトレーニング中に違和感がありました。前年の年末に鎖骨のプレートを外したのですが、そのせいか左側の力が入らない感じだったんです。でも、金曜、土曜と調教には乗れたので『筋が伸びちゃったのかな?』くらいに思っていました」
だから週末のレースにも騎乗した。ところが日曜に乗った最初のレースで、それは起きた。
「レース中、ポキッて、なったのが分かりました」
プレートを外したばかりの左の鎖骨が再び折れた。下馬をしてすぐに報告。病院へ直行した。
「2日後くらいに手術をして、1カ月休みました。落ちたわけでもないのに、正月早々から骨折してしまい、悔しい気持ちでいっぱいになりました」
復帰出来たのは2月3日。すると、その日にいきなり復帰後初の、そして今年初の勝利を記録した。
「休みの間もしっかり競馬を見て勉強していました。リハビリも順調にいき、怪我の影響はなく、体の動きも良い感じでした」
突然の訃報
そのような良い状態はその後も続いた。
そんな5月19日の事だった。競馬を終え、携帯のスイッチを入れると実家の母から「至急、電話をください」とのLINEが入っていた。すぐに連絡した。すると、思いもしない言葉が伝えられた。
「父が前日の土曜日に急に他界していた事を告げられました」
驚いた。2年前に1度入院こそしたが、その後は普通に生活をしていた。この週も永野が金曜日に調整ルームに入る前までは何事もなく普段通り。正に急逝だった。これだけの事態の場合、家族もJRAを通せば本人と連絡を取れるようだが、週末の競馬が終わるまではあえて連絡を取らなかったそうだ。
「まだ50歳。祖父より先に逝ってしまいました。生前は凄く応援してくれていました。競馬場に応援しに来てくれたし、来られない時でも、勝てば必ずお祝いの連絡をくれました。負けても激励の連絡がありました。勿論、怪我をしている間もずっと心配してくれていました」
とんぼ返りで実家へ戻り、葬儀に参列したが、あまりに急な事で、未だに実感がわかないと語る永野。これから勝っても負けてももう連絡が来なくなる事で、淋しさが込み上げるのかもしれない。
「僕が出来る事は変わらず精進を続け、1つでも多く勝てるジョッキーになるだけです。そうする事が父への1番良い報告になると思うし、心労でまいっている母を元気づける手段にもなると考えています」
その通りだろう。裏を返せば、そういった努力を怠って成績不振となれば、お父様はゆっくりと休めないし、お母様の気持ちも癒えないだろう。
6月2日にはヴァズレーヌで1着。父が他界した後の初勝利は、通算100勝まで残り7つとなる勝ち鞍になった。この夏は、地元の新潟ではなく「人脈を広げ、経験値も増やすために北海道を主戦場にする」と言い、早速、今週から函館で騎乗する。空の上ではお父様が、新しい髪形を楽しみにしている事だろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)