【光る君へ】藤原道兼の没後、2人の子供たちはどうなったのだろうか?
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道兼が非常に注目されたが、病により亡くなった。その後、道兼の子はドラマに登場しないが、いったいどうなってしまったのか、考えることにしよう。
ドラマの中では道兼の死後、道長(道兼の弟)と伊周(藤原道隆の子)が後継者の座をめぐって、激しく争った。結果、内覧の座に就いたのは道長だった。
その後、伊周は弟の隆家とともに、長徳の変で失脚した。伊周・隆家兄弟が地方に左遷されたことにより、道長の体制は盤石なものになったのである。ところで、影が薄いのが道兼の子である。次に、2人の道兼の子を取り上げることにしよう。
◎藤原兼隆(985~1053)
道兼には嫡男がいたが、幼くして亡くなった。そのような事情から、兼隆は次男だったが、嫡男として育てられた。長徳元年(995)1月、兼隆は従五位上に叙され、道兼は4月に関白になった。
そのまま続けば、道兼・兼隆父子は栄耀栄華を迎えたかもしれないが、道兼は関白に就任して、間もなく亡くなった。当時、数え年で11歳だった兼隆は、道長を頼りにしたのである。
以後、兼隆は順調に出世し、長保4年(1002)に従三位・右近衛中将に叙任されて公卿となった。しかし、その後は道長の子の頼通・教通兄弟の後塵を拝することになったのである。
最終的に兼隆は、正二位・中納言まで昇進した。しかし、寛仁元年(1017)に敦明親王が皇太子を辞した際、兼隆が関与したとの風聞が流れ、親子ともども天皇家に近づけてはならない人物であると歴史物語『大鏡』に書かれたほどである。
◎藤原兼綱(988~1058)
長徳元年(995)に道兼が亡くなると、兼綱は道綱(道兼の兄)の養子に迎えられたという。
寛弘2年(1005)の踏歌節会(正月の年中行事)が催された際、兼綱はほかの貴族らと蔵人に暴力を振るい、しかも踏歌節会で女性が使用する簪や櫛を取り上げる事件を起こし、謹慎処分を受けた。
長和3年(1014)に蔵人頭に任じられ、その2年後には兄の兼隆に代わり右近衛中将になった。しかし、三条天皇が後一条天皇に譲位すると、兼綱は蔵人頭を辞めざるを得なくなった。その後、兼綱は出世に恵まれず、右近衛中将のままで公卿になれなかったのである。
長元2年(1029)、兼綱は越前守に任じられた。天喜6年(1058)7月、兼綱は紀伊守として赴任中に、無念の思いを抱きながら現地で亡くなったのである。