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徳川家康の死因は、鯛の天婦羅を食べて食中毒になったからだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
日光東照宮の唐門。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、大坂夏の陣で勝利した徳川家康も亡くなった。家康は鯛の天婦羅を食べて食中毒になったことで、亡くなったといわれている。その後の経過も含めて、詳しく解説することにしよう。

 元和2年(1616)4月17日、家康は駿府城で病没した。享年75。家康が亡くなる直前の4月8日、家康の病気を心配した秀忠は、天海に命じて浅間大明神の神事を催すこととし、社頭に僧侶を集めた。

 そして、家康の病状回復を願い、大般若経を転読させて祈禱を行ったのである。これにより、一時的に家康の病状は好転したものの、病状は再び悪化して亡くなったのである。

 改めて、家康の死の直前の動静を確認することにしよう。同年1月21日、家康は駿河の田中(静岡県藤枝市)という場所で、趣味でもある鷹狩りを行った。

 その際、茶屋四郎次郎から勧められ、榊原清久が用意した甘鯛と大鯛を榧(かや)の油で天婦羅にして食べた。しかし、家康の体調が悪かったのか、食中毒になってしまったのである。

 その日の夜、家康は侍医の片山宗哲が用意した薬を服用して、少しずつ回復に向かった。1月25日には体調が回復したので、駿府城へ帰還することができた。こうして家康の体調はかなり良くなったものの、心配した子の秀忠は、2月2日にわざわざ駿府の家康を見舞いに行った。

 ところが、再び家康の病状が悪化したのである。やがて、家康の病状は深刻な状況となったので、病の平癒を祈願するため、祈禱などが執り行われた。3月になると、その効果があったのか、家康は歩けるまでに回復したという。

 なお、医学史では、家康が急速に痩せたこと、腹にシコリがあったこと、黒い便が出たり、吐血したりしたことから、胃がんだったのではないかという説が示されている。ただし、実際に医学史の研究者が診察をしたわけではなく、文献(『徳川実紀』)の信頼度の問題もあるので、今後の課題といえよう。

 3月20日、朝廷は家康を太政大臣に任じた。生前に太政大臣になった武将は、平清盛、足利義満、豊臣秀吉の3人だけだったので、家康は新たに加わることになった。朝廷は家康の余命が短いことに配慮して、あえて太政大臣に任じたのかもしれない。

 その後、家康は再び病状が思わしくなくなり、いよいよ自らの死期を悟ったので、諸大名に形見分けを行ったのである。4月4日、家康は次のとおり崇伝に遺言を託した。

①遺体は駿河国久能山(静岡市駿河区)に葬ること。
②葬儀は江戸の増上寺(東京都港区)で執り行うこと。
③位牌は三河国大樹寺(愛知県岡崎市)に置くこと。
④一周忌後、下野国日光(栃木県日光市)に小堂(のちの日光東照宮)を建て、勧請すること。
⑤④により、日光の小堂を関八州の鎮守とすべきこと。

 日光への分霊を希望したことは、藤原鎌足の遺骸が摂津国阿威山(大阪府茨木市)から、大和国多武峰(奈良県桜井市)へ1年後に移されたという例にならったものといわれている。

 家康は駿河、三河、下野の3ヵ国に葬られることを願い、天上から江戸幕府の安泰を見守ろうと考えたのだろうか。現在、日光東照宮、輪王寺、日光二荒山神社の二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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