ヒトでなしの顧客にモノを売ってどうする
事業においては、顧客があるのではなく、顧客の求めるモノがあるのです。そして、モノ消費からコト消費への転換が進むなかでは、顧客の求めるモノすらなく、顧客が求めているコトしかないのです。しかし、産業界の伝統的な思考形態は、ヒトとしての顧客にモノを売るという枠組みのなかにあるようです。さて、いかにして発想の転換は可能になるのか。
モノの誕生と成熟
どの産業においても、顧客が問題なのではなくて、顧客の需要、即ち顧客の求めるものだけが問題だったはずです。しかし、顧客の求めるものは多種多様ですから、それに応じて供給業者の専門性が生じ、ひとたび専門性が生じれば、そこに技術的革新が生じ、質的にも量的にも高められた供給能力は新たな顧客を求める、そのときから顧客が問題になったのです。つまり、モノが確立したときに、顧客が生まれたのです。
こうして、事業活動とは、あるモノについて、新たな顧客の需要を開発することとなり、それにより経済は成長してきたわけですが、顧客の需要が増大すればするほど、限界的な需要の増分は小さくなり、経済が成長すればするほど、限界的な成長率は低下していかざるを得ず、経済の成熟の果てに、成長率がゼロに限りなく接近してくれば、それまでのモノを軸にした成長のあり方は崩壊せざるを得なくなって、全く異なる原理が求められてくるわけです。
このことは、程度の差こそあれ、先進経済圏共通の問題ですが、特に成熟の著しい日本にとっては、事態は非常に深刻であるにもかかわらず、あまりにも難しい課題だけに、現段階において、様々な新しい事業構想の試みがあるにしても、本質的に完全なモノ離れとなるものはないようです。
モノからコトへ
例えば、耐久消費財の王者として君臨してきた自動車、モノの代表としての自動車は、遠くない将来において、移動というコトに代替されてしまうのでしょうが、そのときに主役になるのは、位置等に関する情報を処理する高度なシステムであって、モノとしての自動車ではないはずです。しかし、現状では、革新は、モノとしての自動車に情報システムを実装させて高度化させる技術のなかで、即ちモノの領域のなかで進行しているようです。
また、観光においても、有名な景勝地、温泉、建築、遺跡、名物の食べ物等のモノから、歩く、走る、自転車に乗る、釣る、寛ぐ、食べる等のコトへの転換が進みつつあるのでしょうが、その転換の実態は、現にあるモノを利用するだけのことで、発想においては、遊園地や美術館の建設、温泉の掘削等の旧態依然たる客寄せのモノ作りと大差ないのではないでしょうか。
金融におけるコトからモノへの逆行
住宅ローン自体に価値はなく、価値は住宅というモノ、より根源的には住宅を建てるコト、住宅を購入するコトにあるのであって、そのコトの実現に貢献するところに住宅ローンの存在意義があるのです。しかし、現在では、住宅ローンの多くは、他の金融機関からの借換えであって、それ自体が住宅と乖離したところでモノとして扱われているのです。
こうなると、単なるモノとしてのローンに差別性などあり得ないわけですから、価格の競争、即ち金利引き下げ競争に堕してしまう結果、事業としての収益性は下がるばかりですし、しかも、シェアリング経済の進展は、住宅というモノを住むコトに転換させていき、住宅というモノに対する住宅ローンは縮小に向かわざるを得ないのですから、事態は非常に深刻です。
モノ化する生命保険
生命保険というモノがあるわけではなく、不慮の事態に備えた遺族の生活保障というコトがあるのです。しかし、現在の生命保険業界は、保障に対する需要が完全に飽和し、供給過剰に陥るなかで、生命保険という外貌のもとに保障機能よりも貯蓄機能や節税機能が圧倒的に優越する商品を作り、それをモノとして販売しています。つまり、かつての産業界においてモノが成立してきたのと同様の経路をたどり、今更ながらに、日本の現在の生命保険業界では、モノとしての生命保険が成立してきたのです。
しかし、こうした事態は、生命保険業界の規模の維持だけを目指したものとして、生命保険の本来の主旨からの逸脱として、顧客本位に反した業界本位の経営として社会的に許容されるものではなく、故に、持続可能性はないと考えられます。
しかし、モノ販売の行き詰まりは、生命保険業界だけではなく、産業界一般の問題であって、故に、実際に、現在の産業界においては、モノからコトへの産業構造の転換が始まっているわけです。さて、周回遅れの、あるいは時代遅れの生命保険業界は、いかにして自律的な構造改革を実現できるのでしょうか。
コト化する損害保険
事故が起きたとき、なによりも決定的に重要なことは事故処理であって、その費用の金銭的補償は二次的なものにすぎません。また、生命保険では保障の押し売りが可能でも、損害保険では事故の押し売りはできません。故に、損害保険では事故処理というコトに忠実であり得たのであり、更にコト化を徹底するなかでは、金銭補償という金融機能は背景に引き、事故処理という非金融機能が全面に出てきているのです。
即ち、もともと金融機能は、損害保険に限らず、それ自体がモノとしては成立せず、何らかのコトの実現を支援するものとして意味をもつだけですから、本来の機能に徹底的に忠実であろうとすれば、自然と金融を脱してコトそのものに向かうと考えられるところ、確かに、損害保険では、金融を脱して事故処理というコトに向かっているのです。
では、生命保険も同様に金融を脱して生活保障というコトに向かわなければならないはずですが、そう考えてみると、生活保障は、事故処理に比較して、あまりにも漠然としていて、結局は、金銭の問題として処理するほかないと思えてきます。この辺に生命保険業界の構造改革の難しさがあるに違いありません。
コト化する融資
住むコトの構造変化に従って、住むコトに対する金融のあり方も変わるのは当然ですから、住宅ローンは、シェアリングの拡大によって、一方では、住宅を所有するファンドや法人への金融となり、他方では、賃貸も含む総合的な住宅仲介へと統合されていくのでしょう。
また、資金の調達は企業経営の多種多様な課題のひとつにすぎないので、銀行等として、モノとしての融資を提供するだけでは、即ち単に融資するだけでは、顧客企業の経営はよくならず、経営がよくならなければ、融資の量の拡大はなく、融資の質の劣化が生じるだけです。そこで、企業経営支援という大きなコトのなかで、その一部としての融資に再構成するほかないのです。これは、かなり前から、金融庁が指摘してきたことです。
モノとして始まった投資信託のコト化
起源において、住宅ローンは住むコトと無関係であり得ないものでしたし、生命保険ですら保障というコトから生まれたものです。しかし、投資信託は、最初からコトとの関連を欠いたモノとして扱われてきていて、敢えてコトとの関連をあげれば、ゲーム、あるいは投機というコトになるほかないものでした。故に、健全な常識をもつ人に投機を楽しむ趣味はないわけですから、投資信託が普及しないのは当然だったのです。
そこで、金融庁は投資信託を再定義し、資産形成というコトのためにあるものとしたのです。こうして、投資信託は、資産形成というコトのなかに位置付けられるとき、不動産、株式、債券などの多様な資産形成手段のひとつに相対化されますから、モノとしての投資信託はなくなり、資産形成というコトだけが残ります。そして、コトとしての資産形成が確立すれば、そのための有用な道具として投資信託も確立してくるのです。
なくなる顧客
モノは顧客を求め、顧客はモノが行き着く先にあるものです。しかし、モノがコトになったとしても、コトは顧客を求めないし、顧客はコトの行き着く先になりません。それは当然のことで、コトは顧客に内在するものですから、コトの提供はあり得ないのです。故に、モノがなくなれば、従来の意味における顧客はなくなり、コトだけが残ると思われます。
つまり、あるモノを顧客に提供しようとするからこそ、そのモノに適合した顧客の属性を知ることが重要になるのですが、顧客のコトに対して、そのコトに適合した何かを提供しようとするとき、顧客の属性を知る必要はないということです。
例えば、ある価格の、あるデザインの、ある機能をもつ自動車を売ろうとするからこそ、これに適合した顧客を知る必要があるわけですが、顧客が自動車で移動するコトについて、レンタカーやハイヤー等の何らかのサービスを提供するとき、どうして顧客を知る必要があるでしょうか。
ヒトでなしの顧客
個人情報の利用については、顧客を知ろうとすることがヒトを知ろうとすることである限り、難問であり続けますが、コトはヒトではありませんから、コトの情報の利用に転換することで、解が見つかるかもしれません。
また、今の世のなかでは、テクノロジーの利用によって、顧客を知ろうという努力が熱心になされているようですが、テクノロジーが把握するのは、顧客ではなく、顧客のコト、即ち行動履歴であり、そこで得られるのはヒトとしての顧客ではなく、コトの集合から再構成された顧客、いわば仮想顧客です。
おそらくは、このヒトでなしの顧客について考えることは、一方では、モノからコトへの転換、他方では、個人情報をめぐる難問の解に対して、多くの示唆を与えるに違いありません。