【光る君へ】紫式部と藤原宣孝の2人に授かった娘とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、懐妊が判明した場面を描いていた。式部と藤原宣孝の2人に授かった娘とは、いったいどんな女性だったのか考えることにしよう。
紫式部と藤原宣孝が結ばれたのは、長徳4年(998)頃といわれている。当時、式部は20代で、宣孝は40代。2人の年齢差は、20歳以上あったという。しかも、宣孝の女癖は、少し悪かったようである。
こんな2人の間に誕生したのが、娘の大弐三位である。式部と宣孝の生年は不明であるが、大弐三位の誕生年もわかっていない。長保元年(999)、または翌長保2年(1000)であるといわれている。
そのような具合なので、幼い頃の大弐三位の生活ぶりは不明であるが、歌人として名を成したのだから、母の式部から作歌を教わったのはたしかだろう。名は賢子といい、藤三位、越後弁、弁乳母とも称された。
長保3年(1001)4月25日、父の宣孝が亡くなった。死因は伝わっていないが、幼い大弐三位にその死が理解できたのだろうか。とはいえ、大黒柱を失ったのだから、式部は大いに悲しんだに違いない。
長和6年(1017)、大弐三位は女房として、一条天皇の中宮・彰子に仕えることになった。実は、母の式部の没年もわかっていない。この頃、式部が生きていたのか、あるいは亡くなっていたのか不明である。
大弐三位は恋多き女といわれ、恋愛にも積極的で駆け引きがうまかったという。交際の相手としては、藤原頼宗(道長の子)、藤原定頼(公任の子)、源朝任(時中の子)らの名が知られている。
結局、大弐三位が夫として選んだのは、藤原兼隆(道兼の子:985~1053)である(諸説あり)。大弐三位の生年は不詳であるが、おおむね兼隆は15~16歳年上だった。式部と同じく、年上好みだったのか。
兼隆は関白を務めた道兼の子だったが、時代は道長の全盛期である。昇進面では、道長の子の頼通や教通に先を越される無念を味わった。その後、自棄になった兼隆は、厩舎人(馬の世話役)を殴殺させる事件を起こした。
大弐三位は歌人として知られ、その和歌は勅撰集にも採録された。私歌集としては『大弐三位集』があり、『百人一首』にも一首が採られている。