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徳川家康が天下人になることができた最大の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、お休みだった。ところで、徳川家康は常に健康に気を配り、学問や武芸に精進したので、その詳細を取り上げることにしよう。

 現代の人々の多くは、健康に気を遣っているはずである。正しい生活習慣、食生活を送ることは、幸福な人生を送るうえで重要である。それは、江戸幕府を開いた徳川家康も同じだった。

 家康は、当時としては長命の75歳まで生きた。その秘訣は、日頃の武芸の鍛錬や質素な食事、そして自ら調合した薬にあったといわれている。

 家康は質素倹約を心掛け、食事は常に粗食だった。家康が特に好んで食べたのは、魚、野菜、納豆など健康に良いとされる食材だ。中でも八丁味噌は大好物で、焼き味噌にして麦飯と一緒にかき込んだという。むろん、麦飯には健康になる根拠があった。

 当時、麦飯には下痢を予防したり、胃腸の調子を整えたりするなどの効果があるとされた。特に、暑い夏場は体力の消耗が激しく、夏バテする人が少なくなかった。家康は麦飯が消化が良いことを知って、毎日のように口にしていたのである。

 家康の粗食をめぐっては、おもしろい逸話がある。あるとき家臣が家康の粗食を見かね、白飯の上に少しだけ麦飯を乗せて、家康の膳に供することがあった。これを見た家康はたちまち怒りだし、「贅沢は必要ない」と述べたという。

 家康は、配下の武将の健康にも注意を払っていた。大坂の陣(1614~1615)がはじまると、家康は配下の武将に白米3升、鰹節10、塩鯛1枚と漬け物を少々しか支給しなかった。腹八分目にして、高カロリーが一番と考えていたようだ。

 家康は、薬に対する造詣も深かった。慶長12年(1607)頃から本草の研究を開始し、薬学の専門書『本草綱目』、『和剤局方』を読みあさっていた。家康の薬に関する知識は、専門家も舌を巻くほどだったという。薬を調合する際に用いた青磁鉢、乳棒などは、貴重なものとして現存する。

 松前藩主の松前慶広は、慶長15・17年(1610・12)の2度にわたって、家康にオットセイを献上した。オットセイの陰茎や睾丸は、漢方の精力剤などとして知られていた。家康はオットセイを薬として調合し、服用したのである。

 家康は、武芸の鍛錬を欠かさなかった。奥平久賀から剣術を指南され、文禄3年(1594)5月に柳生宗嚴に新陰流兵法の相伝を受けた。このほか、鷹狩り(鷹を使って鳥獣類を捕らえる)を好み、馬術の鍛錬に励んだ。

 馬術は大坪流を会得し、鉄砲や弓術の技量に優れていたといわれている。質素な食事、薬の服用、武芸の鍛錬が家康の健康の秘密だったのだ。

 ちなみに、現代人が健康を維持するには、十分な睡眠、適切な食事の質と量、適度な運動が重要である。そして、くよくよしたり、ストレスを溜め込まないことだという。家康の睡眠やストレスの記述はないが、意外にも実践していたのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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