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なぜ支援国はウクライナ“反転攻勢”に沈黙しがちか――クルスク制圧に潜む二重のギャンブル

六辻彰二国際政治学者
クルスク州スジャに駐留するウクライナ兵(2024.8.16)(写真:ロイター/アフロ)
  • ウクライナ政府によるクルスク制圧は軍事的、政治的なリスクを抱えたもので、一種のギャンブルともいえる。
  • ロシア軍はこの間もウクライナ東部で徐々に占領地を広げていて、ウクライナ軍には背後を突かれる懸念もある。
  • そのうえ、このタイミングであえてクルスクを制圧したことは、支援国とりわけアメリカとの関係を揺るがすものでもある。

それほど“交渉材料”にならない

 ウクライナ戦争は大きな転機を迎えた。

 ウクライナ軍は8月6日、ロシアのクルスク周辺への攻撃を開始し、これまでに東京23区の約2倍、1,263平方キロメートルほどを制圧したとみられる。

 これまで守勢に立っていたウクライナが反転攻勢に出た理由として、ゼレンスキー大統領らはしばしば“交渉材料”を口にする。

 つまり、ロシアとの停戦交渉をする場合、ロシアに占領されたウクライナ東部やクリミア半島を取り戻すための条件になる、というのだ。

 もっとも、2014年にロシアに編入されたクリミア半島だけでも約42,000平方キロあり、クルスクが交換材料としてどこまで有効かは疑問の余地もある

 とはいえ、クルスク占領には交換条件以外にもいくつかの理由が指摘されている。

・クルスクはモスクワとクリミア半島を結ぶ幹線道路上にあり、ここの制圧でロシアの輸送を阻める

・鉄鋼などの工業地帯であるクルスクの制圧で、ロシア軍が補給物資を調達しにくくなる

・ロシアとの間に緩衝地帯を設けられる

・ロシアの弱体ぶりを露呈させて国際的支持を集める

 ただし、クルスクの戦略的重要性は確かだとしても、ウクライナの反転攻勢は一種のギャンブルともいえる。そこには軍事的、政治的な二重のリスクがあるからだ。

背後をとられるリスク

 第一に、ウクライナの反転攻勢はロシア軍に背後を突かれるリスクを抱えている。

 ウクライナ軍がクルスクを制圧している間も、ウクライナ国内での戦闘は一進一退を続けている。8月21日、ウクライナ政府は東部ポクロウシクの市民に退避を命じた。ロシア軍の攻撃が迫っているからだ。

 ウクライナが反転攻勢に出た約10日後、アメリカにある戦争研究所(ISW)は最新レポートを発表し、そのなかでクルスク制圧後もロシア軍がウクライナ東部で少しずつ進んでいると報告した。

 それによると、ロシアはあくまでウクライナ東部での支配を段階的に固め、ウクライナ全体にプレッシャーをかけることを目指している。

 これに対してウクライナ軍はクルスク付近やウクライナ第二の都市ハルキウなど、ウクライナ北方に重点を移しており、東部方面の優先度は高くないとISWは指摘する。

 とすると、今後の戦局次第だが、北部に展開するウクライナ軍の背後に、いつの間にか東部からロシア軍が迫ることもあり得る。

アメリカが沈黙する理由

 これに加えて無視できないのは、政治的なギャンブルという側面だ。ウクライナの反転攻勢が先進国との関係を揺るがしかねないものだからだ。

 ここで注意すべきは、クルスク制圧に仰天したのはロシアだけでなく、アメリカをはじめ先進国も同じということだ。

 というのは、これまでアメリカはじめ欧米各国は、ロシアへの直接攻撃に用いないことを大前提に、ウクライナに軍事援助してきたからだ。それは欧米各国がロシアとの直接対立のリスクを回避するためだった。

 それもあって、これまでウクライナによるロシア領内への攻撃は稀で、ドローン攻撃などがあってもウクライナ政府は実行を認めなかった。

 ただし、ウクライナにはもともと支援国の“レッドライン”に対する不満があったといわれる。

 こうした背景のもと、ウクライナはクルスクを制圧しただけでなく、その際にアメリカ製の多連装ロケット砲HIMARSを使用したと認めたのだ。

 これはバイデン大統領にしてみれば「話が違う」もので、実際ホワイトハウスはこの件に沈黙を保っている。

 一方、ゼレンスキー大統領は21日、シンガポールメディアに「レッドラインの想定は崩れ去った」、「世界はロシアに関するナイーブ(この表現にはやや侮蔑的ニュアンスがある)な幻想から脱皮すべきだ」と強気のコメントを繰り返した。当然のように先進国メディアはこれをほとんど報じていない。

 要するにウクライナ政府はクルスク制圧での既成事実をタテに、より踏み込んだ協力を求めている。とすれば、クルスクでのHIMARS使用も、支援国との約束を意図的に反故にしたものとみてよい。

なぜ今このタイミングか

 先進国に揺さぶりをかけるようなクルスク制圧は、なぜ発生したのか。言い換えると、なぜ今このタイミングでゼレンスキーはギャンブルに打って出たのか。

 最大の理由として考えられるのが今年11月に迫った米大統領選挙だ。

 キーウ世界経済研究所の統計によると、バイデン政権は2022年2月以来、800億ドル以上の支援をウクライナに提供してきた。これはかつてない程の規模だ。

 一方、アメリカでは巨額の支援に反対する声も高まっている。ピュー・リサーチ・センターによると、アメリカ市民の約29%は「ウクライナ支援が多すぎる」と回答しており、共和党支持者に限ると47%にものぼった。

 つまり、共和党候補ドナルド・トランプが大統領選で勝利すれば、ウクライナ支援が大幅に削られることも想定される。

 それどころかトランプは「自分が大統領なら1日で戦争は終わる」と豪語してきた。これはつまり、たとえウクライナが反対してもロシアとの停戦交渉を呑ませる、という意味だろう(もともとトランプには大統領時代にゼレンスキーと揉めた因縁がある)。

 要するに、ウクライナ政府が「大統領選挙の結果次第でアメリカは手をひく」と警戒しても不思議ではない。

 とすると、ウクライナ政府にとってクルスク制圧とHIMARS使用は「アメリカももはや当事者」という暗黙のメッセージといえる。

“レッドライン”緩和のための一手

 一方、世論調査でトランプを僅かにリードするカマラ・ハリスは、バイデンの外交・安全保障政策の継承を表明している。つまり、トランプよりはウクライナ支援に前向きといえる。

 とはいえ、たとえハリスが大統領選で勝利しても、これまでの巨額の支援を考えれば、ウクライナ戦争の長期化を避けたいのは確かだろう。

 さらに、バイデン路線の継承ということは、アメリカ製兵器をロシアへの直接攻撃に用いない“レッドライン”維持をも意味する

 だからウクライナ政府にとっては“ハリス大統領”の方が望ましいが、それだけでは不十分ともいえる。

 それは、このタイミングでのクルスク制圧の一因になったとみられる。

 HIMARSを用いた反転攻勢に肯定的な世論を醸成できれば、ハリスもレッドライン緩和を検討せざるを得なくなる。

 先述のようにアメリカではウクライナ支援への消極論が台頭しているが、その一方ではアメリカ政府のレッドラインに否定的な世論が目立つ。ピュー・リサーチ・センターの世論調査では、共和党支持者の46%、民主党支持者に至っては65%が「アメリカ製兵器をロシア領内での攻撃に用いること」を支持している。

 ただし、それが欧米とロシアの緊張をこれまで以上にエスカレートさせることは間違いない。

 こうしてみた時、ウクライナが打って出た賭けは、ウクライナにとってだけでなく支援国にとっても大きなインパクトを秘めているといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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