【インタビュー】カーク・フレッチャー/『My Blues Pathway』で辿る“ブルース小路”
ブルースの新時代を牽引するアーティスト、カーク・フレッチャーがニュー・アルバム『My Blues Pathway』を海外で発表した。
“我がブルース小路”と名付けられた本作は、通算6作目のリーダー・アルバムにしてカークのブルース人生の集大成だ。冴えわたるギターと入魂のヴォーカル、感情を込めたオリジナル・ナンバーとリスペクト溢れるカヴァー曲の数々は、1975年生まれの彼が現代を代表するブルースマンの1人であることを強くアピールするものだ。
2016年、2017年、2019年と連続して来日公演を行い、日本においても熱い支持を得ているカークに、新作について訊いた。
<ブルースは俺の音楽、俺からのメッセージ>
●『My Blues Pathway』ではどんな音楽性を志しましたか?
このアルバムは、俺にとってのブルースのセレブレーションなんだ。俺は19歳か20歳のときからブルース・クラブで演奏してきた。当時のエネルギーと興奮を、今の演奏で再現したかった。さらに影響を受けてきたミュージシャンの曲をカヴァーしたり、共作しているよ。
●現代においてブルースは決してメインストリームな音楽ではありませんが、2020年にブルースをプレイするというのはどんなことですか?
時代はあまり関係ない。これが俺の音楽であり、俺からのメッセージなんだ。自分を表現するのに最も適しているのがブルースの歌詞とギターだよ。俺が音楽を始めた頃、憧れたヒーローの多くがブルースメンだったこともあるし、ブルースを弾くのが最も自然だったんだ。
●あなたのヒーローはどんな人たちでしたか?
B.B.キング、ハウリン・ウルフ、アルバート・キング、フレディ・キング、アルバート・コリンズ、エディ・テイラー、ロバート・クレイ...彼らは20世紀に世界にブルースを広めてきた巨人たちだ。俺は彼らに少しでも近づきたくて、日々練習してきた。確かにブルースは大ヒットを期待出来るスタイルではない。でも世界中にブルースを愛する音楽リスナーがいるし、同じスタイルを愛する同志がいるんだ。モンスター・マイク・ウェルチ、ジョー・ボナマッサ、エリック・ゲイルズ、クリストーン“キングフィッシュ”イングラム、マーカス・キング、ゲイリー・クラーク・ジュニア...みんな2020年代にブルースを受け継いでいく存在だ。仲間がいることは励みになるよ。
●あなたはカリフォルニア州ベルフラワー出身だそうですが、ブルースをやるのに向いた土地柄でしたか?
うん、ベルフラワー生まれだけど、育ったのはその近くのレイクウッドだった。そして13歳のときにコンプトンに引っ越したんだ。どれもロサンゼルス郊外の隣接する地区で、治安が良くなかった。俺はギャングに入るつもりもなかったし、あまり出歩くこともなく、自宅でギターを練習していたよ。だからロックダウンには慣れているんだ(苦笑)。スティーヴィ・レイ・ヴォーン、ロバート・クレイ、アルバート・コリンズなどのレコードに合わせてギターを弾いて、MTVを見て、ギター雑誌を読んで...俺の周囲にブルースを志す友人はいなかった。だからなおさら、一人で引きこもるようになったんだ。
●コンプトンといえばヒップホップで有名ですね。
うん、N.W.A.の『ストレイト・アウタ・コンプトン』(1988)で世界的に有名になった。治安の悪さで知られるようになったのは有り難くはないけど、自分の育った地域が知られているのは嬉しいね。あまり知られていないのは、コンプトンが1950年代ぐらいまで白人の割合が多い町で、カントリーが盛んだったことだ。日系人もかなりいたよ。それが1965年の暴動に前後して、黒人がコンプトンにも増えてきた。元々、隣のワッツには黒人が多くて、ドン・チェリーのようなミュージシャンが活動するジャズ・シーンがあった。N.W.A.もそうだし、サンダーキャットやカマシ・ワシントンもロサンゼルスの郊外から出てきたんだ。ヒップホップに限らず、ずっと豊かな音楽文化がある町だったよ。
●アルバムの「Life Gave Me A Dirty Deal」にはチャーリー・マッスルホワイトがゲスト参加していますが、彼との交流について教えて下さい。
2000年代の初めにチャーリーのバンドでやったことがあったんだ。ザ・ファビュラス・サンダーバーズに入るちょっと前のことだよ。彼はボスであり、友達だ。今回、ハーモニカが必要になって、最初に思いついたのがチャーリーだった。かつてのボスと共演出来て嬉しかったし、音楽的にもピッタリはまったんだ。
● A.C.リードの「Rather Fight Than Switch」をカヴァーしたのは?
A.C.のプレイを初めて聴いたのはアルバート・コリンズのレコードだった。彼はアルバートのバンド、アイスブレイカーズの一員として、素晴らしいサックスを聴かせていたんだ。「Rather Fight Than Switch」は彼がソロとして発表した曲だ(1965年)。歌詞に共感をおぼえたんだよ。自分の人生において妥協しないというメッセージを、ちょっとしたユーモアを込めながら歌っている。俺自身、ハッピー・ゴー・ラッキーな人間であるのと同時に、内省的でダークな側面も兼ね備えているんだ。A.C.と直接会って話す機会はなかったけど、この歌詞を通じて、親近感を持ったね。
●サニー・ボーイ・ウィリアムスンの「Fattening Frog’s For Snakes」をレコーディングした経緯を教えて下さい。
サニー・ボーイの大ファンなんだ。彼の曲、ヴォーカル、ハーモニカ...すべてが最高だよ。アルバム『Down And Out Blues』(1959)は十代の頃からずっと聴いているし、俺のDNAの一部に組み込まれている。でも「Don't Start Me To Talkin'」や「Eyesight To The Blind」は誰もがやっているし、他にも名曲が幾つもあることをブルース・ファンに知ってもらいたかったんだ。
●デニー・フリーマンに捧げたオリジナル曲「D Is For Denny」について教えて下さい。
デニーはテキサス州オースティンのブルース・シーンの親分的存在だった。ジミー・ヴォーンとスティーヴィ・レイ・ヴォーンの師匠としても有名だけど、一時期ロサンゼルスに住んでいたんだ。ちょうど俺が21歳になって、酒場やクラブに入れるようになった時期だった。何度も彼が演奏するのを見に行ったし、ショーの後に話したりもしたよ。彼からはインスピレーションを受けたし、独自のスタイルを築くことの重要性を学んだ。「D Is For Denny」は彼に対する感謝を込めた曲なんだ。
●「No Place To Go」はロバート・クレイとの活動で知られるリチャード・カズンスとの共作ですが、彼とはどのように知り合ったのですか?
リチャードも俺もスイス在住で、友達なんだよ。ずっとロバート・クレイのファンだったし、リチャードのベースも好きだった。自分のヒーローと一緒にプレイ出来るのは光栄だったね。本当にインスピレーションを得ることが出来たよ。最近はネットを介してトラックを送るのが普通になっているけど、この曲は顔を見合わせながら、一緒に書いたんだ。そうすることで生のエネルギーの交流が生まれたんだ。
●「No Place To Go」のミュージック・ビデオではサンバーストのストラトキャスターを弾いていましたが、アルバムのレコーディングでも同じギターを弾きましたか?
いや、アルバムで弾いたのはいろんな年のストラトのパーツを組み立てたものだ。サンバーストのストラトは外見が最高なんで、ビデオ用に弾いたんだよ。かつてライヴではテレキャスターも弾いていたけど、『My Blues Pathway』を完成させてからポール・リード・スミス(PRS)のギターをエンドースするようになった。PRSのギターは最高だよ。アルバムの出来には満足しているけど、PRSと出会うのがもっと早かったら、レコーディングで弾けたのにね。PRSは実践的なギターなんだ。サウンドが素晴らしくて、頑丈だし、湿度の変化にも強い。それに個体差がなくて、どのギターを弾いてもトップ・レベルの音を得ることが出来る。ツアー先でネックが折れてしまっても、世界中の楽器店で同じ高品質のものが手に入るんだ。
●新作はもちろんですが、前作『Hold On』(2018)の「The Answer」のギター・ソロは名演だと思います!
どうも有り難う。「The Answer」は私にとってもフェイヴァリットのひとつだよ。あのギター・ソロはワン・テイクだった。1、2テイクを録って、良い方を選んだんだ。そうするのがベストな結果を得られるんだ。オーヴァーダブやツギハギはしていないよ。
<日本のファンは音楽が人生の一部となっている>
●今日は時間を割いていただき、有り難うございました。ブルースというと午前1時のシカゴやミシシッピというイメージがありますが、午前9時のスイスで取材開始というと、あまりブルースな感じがしませんね。
ハハハ、そうだね(笑)。でも世界のどこでも、朝だって夜だって、誰だってブルースを抱えているんだよ。決して大きなシーンではないけど、スイスの各都市にブルース・クラブがあるし、“ルツェルン・ブルース・フェスティバル”や“モントルー・ジャズ・フェスティバル”などのフェスもある。ヨーロッパのいろんな国をツアーするのもやりやすくて、とても気に入っているよ。
●どうしてスイスに引っ越したのですか?
スイスで、ある女性に恋をしたんだ。いつも世界をツアーしていて、どこに住んでも同じだから、スイスに住むことにした。チューリヒから車で20分ぐらいのところだよ。とても静かで、日常生活の質がきわめて高い。ロサンゼルスほど生活のテンポが速くないし、メロウな生活だよ。娘がラスヴェガスに住んでいるから、数ヶ月に一度はアメリカに戻っていたけど、今年(2020年)は新型コロナウィルスのせいで自宅の周りをうろついているだけだ。EU圏内でも国境を越えられないし、ミュージシャンにとっては難しい時期だよ。まずはソーシャル・ディスタンシングで少人数のライヴをやったり、とにかく焦らず、ゆっくり前進していくしかないね。今年も日本でライヴをやりたかったけど、来年の楽しみにしておくよ。
●2016年3月にマイケル・ランドウ・バンド、2017年10月にジョシュ・スミス、マット・スコフィールドとの“スリー・プリンシズ”、2019年9月の単独公演と、頻繁に日本でライヴを行ってきましたが、日本の印象はどんなものでしたか?
日本にはずっと前から憧れてきたんだ。1986年だったか、兄貴ウォルター・フレッチャーが日本のクラブのハウス・バンドでプレイしていた。全米トップ40の曲をプレイするようなバンドで、素晴らしい経験だったと話していたよ。それに私は十代の頃からレコードを集めていた。レイ・チャールズの『ライヴ・イン・ジャパン』やハイラム・ブロックの日本でしか出ていないアルバムも持っているし、初めて東京のでかいタワーレコードを見たときは、何日でもここで過ごせると思った。そのように音楽が人生の一部となっている国の音楽ファンの前でプレイするのは、最高の気分だ。また日本に行けるのを楽しみにしているよ。