台湾発展のために力を尽くした、八田與一の軌跡
八田與一が生まれたのは、1886年のこと、石川県の花園村、現在の金沢市今町です。
彼は石川県の中学校と第四高等学校を経て、1910年に東京帝国大学の工学部土木科を卒業すると、直ちに台湾総督府の土木技手として採用されました。
当時の台湾は、総督府による伝染病予防のための衛生対策が進められており、八田もまたその事業の一環として台南や嘉義の上下水道整備に従事したのです。
その後、灌漑・発電事業に携わることとなり、先輩である浜野弥四郎のもとで学ぶ機会を得ます。
共に現地の水道整備を進めるなかで、八田は多くの技術と心得を吸収し、それは後の嘉南平野での大規模な水利事業「嘉南大圳」の計画に繋がっていくのです。
八田は31歳のとき、16歳であった金沢の開業医の娘・外代樹と結婚し、家庭を築きながら台湾南部の嘉南平野の調査に没頭しました。
嘉南平野は台湾でも広大な農地が広がっていたものの、灌漑設備の不足から常に干ばつの脅威にさらされていたのです。
八田は、この危機を打開すべく、官田渓をせき止め、ダムを建設し、長い隧道を通して水を引き込む計画を構想しました。
これは国会の承認を得て実現することになり、八田は国家公務員の地位をあえて手放し、嘉南大圳組合に所属する技師として現地で工事を指揮したのです。
約10年にわたる歳月と莫大な費用をかけて、ついに烏山頭ダムは完成し、嘉南平野を潤す16,000キロに及ぶ水路が敷かれました。
ダムの建設に際しては、働く作業員たちのために宿舎や学校、病院まで整備され、八田の手厚い配慮が感じられます。
このダムは「珊瑚潭」の愛称で親しまれ、現在も公園として整備され、八田の銅像や記念館が置かれているのです。
1939年、八田は再び台湾総督府に復帰し、台湾産業計画の策定に携わります。太平洋戦争が勃発するなか、1942年にフィリピンでの灌漑事業のため海を渡ろうとしました。
しかし、乗船していた客船「大洋丸」が米国の潜水艦に撃沈され、八田はその命を海に散らすこととなります。
終戦後、妻の外代樹も夫の後を追うように、彼が愛した烏山頭ダムの放水口に身を投じました。
八田與一の名は今でも語り継がれており、その美名は日本だけでなく台湾にも広まっています。
参考文献
古川勝三(2009)『台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯』 創風社出版