唯一無二の賞レースだからこそ。記者が感じる「M-1」への不安
12月24日。「M-1グランプリ2023」の決勝が行われます。
第一回から取材をしてきた者として、最も思い入れがある賞レースでもあります。
だからこそ、細かい風向きを感じもする。その中で耳を刺激するのが「『M-1』で笑えない」という言葉です。ここ数年、お笑いの内外から、そんな声を聞く機会が増えました。
「M-1」と漫才はまた別物です。フットサルとサッカーくらい、もしかすると、アメフトとラグビーくらい違う競技かもしれません。
4分間で笑いに勝ち負けをつける。その時点で笑いが競技になり、競技である以上、勝つために技術はどんどん先鋭化していきます。
最新技術の見本市でもある「M-1」ならではの宿命でしょうが、ハイスピードに進化する「M-1」に対し、一般の方の考察もSNSで多数見受けられるようになりました。
昨年の優勝コンビ『ウエストランド』が見せた令和の毒舌『石炭をガンガン燃やしながら二酸化炭素を出さない技術』にもあらゆる考察がなされました。
「この笑いが分からないと成熟したオトナとは言えない」
「笑いを作るのは本当に大変なことで、そこを理解できないのは浅い」
もちろん、それは一面的には事実です。ただ、多くの芸人さんがそこに「ん~…」となっているのも事実です。
もっと緩く、なんとなーく楽しむ。面白ければ笑うし、面白くなければ笑わない。それでいいんじゃないかと。
無論「M-1」で活躍する芸人さんはすさまじい。その場を作るスタッフさんもすさまじい。だからこそ、大きなうねりになった。なったからこそ、妙なところに「かくあるべき」が出てくる。
「かくあるべき」の「かく」からにじみ出る雑味が純粋に笑うことを邪魔している。そんな部分があるのではないか。
もっとシンプルに。お笑いなんてそんなもの。それが25年、芸人さんを取材し、芸人さんは心底すごいと思っている僕がリアルに感じていることでもあります。
さらに、取材をしてきて考えさせられるのが“格”と“偉さ”というワードです。
芸人さんにとって格は非常に大切なものです。
例えば「オール阪神・巨人」さんが体調不良でなんばグランド花月の出番を休むことになった。誰を代役に立てるのか。ここで出てくるのが格です。
圧倒的集客力を誇り、華のある人気「EXIT」が出てきても、これは格が違う。「ザ・ぼんち」のお二人ならどうか。「西川のりお・よしお」ならどうか。桂文珍さんならどうか。そういう判断になっていきます。
今から20年ほど前は、吉本興業のタレントプロフィールが毎年のように分厚い辞書くらいの本として関係者に配られていました。
表紙をめくって最初に写真が載っているのが笑福亭仁鶴さん。その次が西川きよしさん。さらに桂三枝(現・文枝)さん。そこから大御所さんが続き、ベテラン、中堅、若手になるほど写真の大きさが小さくなっていき、そこには明確な格の差が表れていました。目には見えないが、相撲の番付のようなものものが明確にあります。
現役選手でやっている以上、賞を取って、たくさんお客さんを入れて、テレビで人気者になって、結果的に格を上げる。これは非常に大切なことです。
ただ、それと同様、多くの芸人さんが異口同音に言っているのが「偉くなったらダメ」ということです。格は上がっても偉さは要らない。なぜなら、偉くなることは笑いにとって邪魔だからです。
賞レースも格が上がることは何の問題もない。むしろ、望ましい。ただ、その場に偉さが付随しだすと、良くはない。
「ナイツ」塙さんの“八百長ドッキリ騒動”が炎上したということも「M-1」がこの格と偉さの領域に足を踏み入れているからこその話だと思っています。
とはいえ、格を上げることと、偉くなることは、同じようなトレーニング方法で鍛えられるものなので「ここの筋肉は必要だけど、ここは要らん」みたいな住みわけが非常に厳しい。
もし、そこを具現化しうるとすれば、見る側の意識しかないと思います。
「あれが漫才?」も「こんなんわからんわ!」も、その人の思うこと全てが正解。
「この笑いがわからない人間はダメ!」「裏にある努力を知れ!」など笑いで他人を制約しにかかることは無粋。押し付けは不要な偉さにつながると考えています。
本来、ゲラゲラ笑ってみんながハッピーになるために生まれたものが、みんなを分断するものになっては本末転倒です。
妙な偉さどこかから表れて、幅を利かさぬよう。
「M-1」という唯一無二の空間がこれからも健やかでありますように。それをただただ願うばかりです。