【河内長野市】修平さんが導く明るく楽しい河内長野とは?就任1か月経過の西野市長に直撃インタビュー
私は、河内長野に引っ越しをしてきて3年半ほど経過しました。移住すると「前までいたところとは違う」と、いろんなところで感じると思いますが、河内長野に住んだときに感じたことのひとつに、ある政治家さんのポスターの存在がありました。
政治家さんのポスターは他の地域でも見かけますが、飛びぬけて多くのポスターが貼ってあったために、河内長野でいちばん最初に名前を覚えたのが「西野修平」さんでした。そして皆さんがご存じの通り、大阪府議会議員から転身し、8月3日から第七代河内長野市長に就任されました。
以前も書きましたが、府議時代からいろいろなところでよくお顔をお見掛けする西野市長ということもあり、ぜひ取材を申し込んでインタビューしたいと考えていました。そこで就任1か月が経過したタイミングで取材を申し込んだところ、たいへんお忙しい中、調整してくださいました。
というわけで、縁起の良い数字の9が並ぶ9月9日午前9時に、河内長野市役所にて西野修平市長への、市政への意気込みの他、個人的に気になっていた河内長野との出会いなどを中心にインタビューさせていただきました。
西野市長(以下、修平さん)は、東大阪市出身で、祖父が元大阪府議会議長、父が元衆議院議員、叔父が元大阪府議会議員、そして兄が大阪府議会議員で元衆議院議員という、いわゆる政治家一家の出身です。まずそのあたりからお話を伺いました。
修平さんは幼いころから政治とは近い関係がありました。そのためもあって、小中学生時代に学級委員や生徒会長など、ずっとみんなのリーダーとして活動してきたそうです。
ところが、このころに最初の挫折を味わいました。通っていた学校では前期と後期で生徒会会長が変わります。修平さんは前期に立候補しましたが、肝心の演説の際にあがってしまって上手にしゃべられなかったそうです。結果落選してしまい、子供心に大きな屈辱を味わいました。
それだけではありません。政治家の子どもという立場が災いし、いじめにまで遭ってしまったというのです。「このままでは引き下がれない」と考えた修平さんは、準備に準備を重ねて、後期に再び立候補。演説も上手く行き、無事に生徒会長に当選したとのこと。このときに修平さんが思ったことは「言葉で人の心を動かすこと」の大切さを覚えたといいます。なんと、この頃から政治に関心があったそうです。
とはいえ、このまま政治家になったわけではありません。修平さんは高校、大学と進学した後は民間企業に就職して、ごく一般の社会人の人生を送るつもりでいました。
中学時代はサッカー部に所属していた修平さんは、高校時代にアメフト部に移籍しました。高校のアメフト部は花形で、非常に多くの部員(約140名)がいましたので、競争が激しく、あまりにも厳しい練習に耐え切れず、一時は退部も考えたそうです。
ところが、転機が訪れたのはアメフトの中で蹴るスペシャリスト「キッカー(K)」のレギュラーが怪我をしてしまったときです。急遽「サッカー経験者の中で誰か代わりに蹴れる者はいないか?」と声がかかったので、修平さんは手を上げてキッカーとして試合に参加。
キッカーは蹴るのがメインで、ボールを持って走ったり、タックルしたりしないため、当時はあまり人気がなかったのですが、修平さんはキック力だけは自信があったため、手を挙げたそうです。そしてその後、試合での活躍が認められ、部内での修平さんの評価が一気に上がりました。
修平さんは、このときの経験から、先日の若手職員との懇親会で「必ず自分に合う仕事に出会うので、その時まで準備をしてチャンスを掴んでほしい。そして、自分の得意な分野を伸ばしてほしい」と話をしたそうです。
こうしてアメフト選手として関西大学、さらには富士通入社への道に進みます。アメフトの選手として、引退後は富士通社員として人生を全うする予定だった修平さんでしたが、ここでいよいよ政治家への道が開けることになりました。
その理由を伺うと、「河内長野に若くてイキのいい政治家が欲しい」という市民の方の要望が、当時衆議院議員だった修平さんのお父さんの耳に入ったのです。
それを聞いた修平さんは決断しました。河内長野は歴史や自然、そして人情味に溢れたまち」と以前から思っていたそうで、「河内長野で政治家を志したい」と直感的に縁を感じたからだそうです。
そんなこともあり、河内長野で立候補を決意した修平さん。それは大きな賭けでもありました。立候補するということは、それまでの安定した生活をすべて捨てなければならないからです。それでも修平さんはアメフトも富士通社員の立場を捨てて、あえて河内長野に飛びこみました。
とはいえ、選挙はそんなに甘いものではありません。最初の府議会議員選挙では接戦に持ち込むも、19,143票と2,800票ほど足りずに落選します。
それでも修平さんは、あきらめずに4年後を目指します。当時の政治家さんはしていなかった駅立ちを、修平さんは落選した翌日から始め、河内長野駅に立ったのです。
すると、これまで話しかけてこなかった市民の方たちが口々に「頑張ったね」「惜しかったね」と声掛けをしてくださった。「この時のことを思い出すと、今でも涙が出ます」と修平さんは目を潤ませていました。
修平さんは、数100回もの駅頭挨拶の他、街頭演説やミニ集会を重ねながら、市民の声を聞きました。こうして4年後の2003年の府議会議員選挙では、25,988票の得票数を得てついに当選しました。修平さんが30歳の時です。
初当選の時の心境をお伺いしたところ、嬉しさと同時に大きな責任を感じたそうです。そして「落選後に経験した4年間が今となっては大切な宝物。自分の一生を賭して、河内長野のために働く」と心に誓ったそうです。
ちなみに、修平さんはお父さん他、政治家一家ですが、地盤を継いでいるわけではないので、「2世」といわれたくないそうです。
修平さんが府議初当選の頃の河内長野市長は橋上義孝さんでした。そのころはちょうどフォレスト三日市が完成したころ。橋上さんは修平さんのお父さんとは兄弟分ともいえる間柄で、今の市庁舎完成時もお父さんが大阪府議会議員(当時)の立場で挨拶に来られたそうです。
こうして21年間市民に寄り添う府会議員として活躍されてきた修平さんですが、いよいよ今年、市長選に挑戦することになりました。
島田前市長が任期満了を持って退任するとの発表があったのです。
ではだれが市長になるのかという憶測が流れる中、国政を目指していたこともあって悩みに悩んだそうです。そして導き出した答えとして、修平さんは「今の自分があるのは河内長野市民のみなさんのおかげ」と考え、天から『お前がやれ』と言われているように感じ、決断しました。
修平さんはあくまで自分自身の目標ではなく、河内長野市の未来のことだけを考えました。市民、市職員と良好な関係を築きながらみんなで現状が変わるように頑張ろうという思いから市長選に立候補。対抗者不在のため無投票で市長選に当選しましたが、修平さんは結果的に市長になれたことで、今まで以上に気合が入っているそうです。
市長選の際に修平さんが「営業部を作る」というキーワードを出したために、ネット上などではかなりの動揺が走りました。それでもあえて営業部が必要なのか。それについてお話を伺うと、まず前提として局制の導入があります。
市役所内に4つの局を導入し、それまでバラバラだった関連部署を包括的に一体化することで、関連する課題にも柔軟な対応が可能で、有事の際にもまとまって行動がとれること。
局の中で市が「攻める」ことを目的にした成長戦略局の中に営業部を新設するとのことだったのですが、行政の部署で聞き馴れない言葉ということもあり「いったい何をやるのか?」というインパクトを対外的に与える狙いもあったとのこと。
この営業部とは、単なる金儲けではなく河内長野市の価値を高めるための部署で、まちを商品化することで移住促進や観光振興につなげていきたいそうです。
修平さんは民間企業が活用している広告代理業務のように「届けたい世代に河内長野市の魅力や支援内容をしっかり伝わるようにアピールしたい」とのことで、特に来年度から子育て支援を拡充するので、それを外部にも伝えられたらと考えているそうです。
また「ふるさと納税」についても、入る分は確かに多いものの出る分も一定数あるため、さらに入る分(外貨)を獲得するために市のPR力を強化したい。例えば現状では「モノ」が中心ですが、そこに「サービス」「経験」を加えていきたいと考えているとのこと。
そのために、外部から民間での経験者に営業部長を任せたいということで、公募するとのことです。局制も含め来年度(2025年4月)から組織としてスタートする予定です。
とはいえ、すぐに変わってできるものではないので、来年の組織改革を待たずに今の段階から「今後」を見据えて想定して動くようにしているとのこと。今変わらなければいけない意識をもつように市職員に伝えているそうです。そのため、かつてない組織改革をかつてないスピードで実施しようとしているのです。
子育て支援に予算を拡充することで、少し意地悪な質問をしてみました。それは河内長野に多く住んでいる高齢者の方への支援をどうするのかということです。
すると修平さんは、アンケートを取って市民の方々の意見を聞いているとのこと。アンケートに答えてくれた人の約8割が高齢者で、そのうち約7割が子育て予算の拡充に賛成の意向を示している結果が出たのです。この結果に修平さんは「先輩方の心の広さを感じました」と語っていました。
実は子育て世代が増えることで、結果的に高齢者にも還元できます。それは市民税は所得に応じて増減するため、子育てをする若い世代や現役世代が増えることで、その結果、市税が増え、その増加分で高齢者向けの行政サービスを拡充しやすくなるからです。
修平さんが市長になって1か月、非常にうれしいエピソードについて話していただきました。訓示で「当たり前を疑ってください」と呼びかけたことで、さっそく人事課の管理職から、これまで普通に行っていた「辞令交付」を止めたいと言ってきたそうです。
人事課の話では、入庁(入社)時や退庁(退職)時はともかく、内部での異動でも辞令を当たり前のように出していたそうですが、その辞令を作成するのに2日かかっていたとのこと。
修平さんは即座に止めるよう指示を出したのと同時に、職員の方から「当たり前のことを疑う意識」として提案してくれたことがとても嬉しかったそうです。
辞令作成だけのための2日間をなくすだけで、コスト面だけでなく職員の生産性の向上にもつながります。「市職員は優秀な人材ばかり。とにかく仕事の生産性を上げてもらいたい」とのことでした。
同じようなことは市職員だけでなく市民や民間にもいえるとのことで、かつて修平さんが府議時代に手掛けた映画「鬼ガール!!」に関連すると思い、映画製作など行政以外の施策についても質問しました。
映画製作などイベントについては、初めから市がやるのではなく、民間の方からアイデアを出していただき、一定程度、形になったところで初めて市が動くのが理想の形と考えているそうです。
修平さんは「まだ個人的な構想段階なのですが」と前置きしたうえで次の話をされました。
- ①帰ってきた鮭プロジェクト
- ②カワチニャガノプロジェクト
①は、鮭は故郷(生れた川)に戻ってくるという習性があることから、河内長野生まれでも、今は河内長野に住んでいない方が、河内長野の今後のまちづくりに関わってほしい。いわゆる「関係人口」を増やそうというプロジェクトです。
②は、修平さん自身が猫好きということもありながら、保護猫や地域猫活動など、猫と人間との共存を考え、猫の力、猫の手を借りていろいろなことをやってみようというプロジェクトです。
以前「にしきんち」さんに取材したときに、河内長野は他の自治体と比べて保護猫活動については遅れ気味であるような話をしておられましたので、その旨を修平さんに伝えると「そういうことも改善していきたい」と力強く言われました。
修平さんは府議時代に、早い段階からSNSをされていました。X(旧ツイッター)も2010年4月から始められています。私は修平さんのアカウントをフォローしているので、Xのつぶやきを拝見する機会が多いのですが、市長になってから特に、他のユーザーから直接きわどい質問を投げかけられることがありました。
修平さんは、SNSの時代が来ると、早い段階から考えていたそうです。そしてきわどい質問への回答について、その相手にだけ答えるのではなく公的な場のようなもの、つまり他の人が見ているという前提で真摯に答えているそうです。また、楽しんでいただくために「これからはモックルをもっとイジろうかな笑」とも考えているそうです。
もうひとつ気になったのは、8月5日初登庁からのカジュアルな服装です。就任初日にも皆さんの前で話をされたことですが、これは若い人との政治の距離を縮めたいという想いがあるから。
議会や式典などフォーマルな格好でないとまずいものは別として、服装がカジュアルな方がコミュニケーションをとりやすいのではという考えがあるからです。
そして周囲にも「これでいいんや」と思わせる狙いもありました。ちなみに修平さんは色違いを含めて7~8足のスニーカーを持っているそうですよ。広報かわちながの10月号からは「市長コラム」が「市長'Sボイス」にも変わります。
府議と市長は180度仕事が違うという修平さん。府議時代は要望を伝える立場だったのが、市長は判断の立場となり、なおかつこれまで以上に責任のある立場となるといいます。
そして府議時代を長年経験したため、議会での市議会議員の方々の気持ちもわかるといわれました。
ただ、修平さん自身が府議時代に実践してきたこと、批判ありきではなく提案型の内容で、お互い建設的な議論が市議会でできればとのこと。
公務などでたいへん忙しい修平さんですが、府議時代同様に、市長になっても大小できるだけ多くの市民活動に、たとえ短時間でも顔を出したいと考えています。「市長室では入らない市民の生の声を聴きたい」ということで、今までどおり出席して、大事な声を聞き逃さないようにしたいそうです。
最後に市長としての修平さんに市民に伝えたいことを伺いました。
「河内長野は今ターニングポイントです。消滅可能性自治体という状況からの脱却を目指しますが、15歳未満の流入人口が流出人口を上回っており、明るい兆しが見えています」
「現在、市に眠る資産の再価値化を考えていて、これからいろんなアプローチで仕掛けていきます。面白いことをどんどんしていきたいので、みんなで河内長野の良さをアピールしていきましょう」
最後に、市長も市職員も市民もみんな同じマインドで、明るく楽しい河内長野になるように頑張りたいといわれました。
また21年間の府議時代に多くの市民の方からは「修平さん」「修平君」と呼ばれていました。それは修平さんの親世代や兄・姉世代のような人が、修平さんを子どもや弟を見るように感じて接してくれたからです。
そして市長になってからも同じ。「市長」と堅苦しく呼んでいただく必要はないのでこれまで通り「修平さん」「修平君」と呼んで欲しいとのこと。
というわけで今回タイトルや文中も「修平さん」と表記させていただきました。修平さんのインタビューを行なった感想として、修平さんの河内長野に対する強い愛情を感じたのと同時に、本当にこれからの河内長野が大きく楽しい方向に動くことは間違いない気がしました。
河内長野市役所
住所:大阪府河内長野市原町1丁目1-1
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 河内長野市役所前バス停下車すぐ
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