クリスマス粉砕デモへの違和感 恋愛資本主義を超え、生きづらさこそ打倒せよ
今年も革命的非モテ同盟による「クリスマス粉砕デモ」が開催された。
ハフィントンポストが報じている
「クリスマスを粉砕せよ!」渋谷でデモ 主催者が語る、そのオソロシイ野望
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/23/anti-xmas-demo_n_13810374.html
この記事は、SmartNewsやLINEニュースのトップ画面にも掲載された。これだけ取り上げられるのだから、今年は過去最高の規模になったかと思いきや、リンク先の写真や動画を見ると、例年同様、10~20名だったので、安心したような、悲しくなったような。
もっとも、これはSNS時代の社会運動の可能性を示しているとも言える。たとえ小規模のものでも主張が尖っていて、共感する者がいれば、動画や写真、記事がネットで拡散し、想いが届く。社会に問題提起をすることができ、社会運動としても広がっていく。
ハフィントンポストの記事によると、革命評議長のマークウォーター氏は
などと主張した。傾聴に値する声ではある。
ただ、この2006年から10年にわたる非妥協的な永続的闘争を私は以前は応援していたのだが・・・。正直、時代とズレてきていると感じた。クリスマスもバレンタインもハロウィンの急成長により、以前ほどの存在感を失っている。もう十数年前から恋愛イベントから仲間、家族イベントへと変質している。革命的非モテ同盟が敵視する恋愛資本主義の象徴のような「クリスマス」は根強く残りつつも、以前ほどの勢いを失っている。
非モテが恋愛資本主義を打倒するというプロレス的構図はわかりやすい。ただ、そもそも脱恋愛が進んでいる時代である。そもそも彼らは「非モテ」として「恋愛資本主義」を「打倒」するのではなく、オルタナティブな幸せな生き方としての「非モテ」を提唱するべきではなかったか。
もちろん、非モテには構造的問題がある。それが階層や職業、年収、生まれつきの美醜、コンピテンシーなどが関係するものであり、普遍的・根底的矛盾を孕んでいるものだとしたならば、糾弾し続けるべきだろう。恋愛をし辛い環境をつくってしまったのが、国家だったとしたならば、その怒りはどこまでもぶつけるべきだ。
安倍政権は何年も前から「少子高齢化に歯止めをかける」と言っている。しかし、ついに年間出生数は100万人を割ってしまった。政権を担当して丸4年。今ままでの打ち手はどうだったのか検証されるべきだが、それだけ少子化問題は根深い問題だ。
ただ、少子化やそれに伴う諸問題が問題であることは認識するものの、多くの庶民は社会のためではなく、自分たちのために子供を生む。個人の自由に国家はどこまで介入するのか。「恋愛資本主義」もそうだが、「恋愛強要国家」に対する怒りもぶつけるべきだろう。
「リア充は爆発しろ」と彼らは叫ぶ。ただ、彼らが批判するのはあくまで「恋愛資本主義」の「勝者」としての「リア充」である。「非モテ」としての「リア充」というオルタナティブを提唱してこそ、新しい生き方を提唱していると言えまいか。それが「非モテ」の「連帯」により実現すると主張するなら、私は応援するのだが。
その「非モテ」の間でも格差が広がっている。仲間と連帯し、デモを行うことができる彼らはコミュ力もあり仲間もいる勝ち組「非モテ」だと言われたら、どう反論するだろうか。あたかも『ONE PIECE』やジャニーズを見ていて「ああいう友達が僕にはいない」という悲しみを抱く若者と同じ感情を、非モテの一部は、革命的非モテ同盟に対して感じていないか。
今の社会の課題は「男の生きづらさ」である。それは「女の生きづらさ」にも連鎖している。革命的非モテ同盟は、その部分こそ主張するべきだ。より共感を得られることだろう。「働き方改革」なんてことが叫ばれるが、所詮は「働かせ方改革」であり、「生きづらさ改革」にはなっていない。「男の生きづらさ」改革の問題提起をなぜしないのか。
恋愛資本主義の打倒をというが、その価値観自体が旧態依然としたものであり、モテに対する憧憬とルサンチマン、コンプレックスなどが渾然一体となっている。結局、その原動力の背景には「男」が「女」に「モテる」というクラシカルな世界観のもとになりたっている。つまり、彼らは恋愛資本主義を否定していそうで、その掌の上で見事に踊らされている。それは少年がAVなどにより性のイメージを植え付けられ妄想するのと同じで、何ら危険性がない。
愛や性の多様性が論じられる時代である。彼らの「非モテ」の主張は、結局のところ「男性」から「女性」への眼差しである。「女性」から「男性」への眼差しや、同性同士の眼差しが代弁されていない。中年の燃えるような不倫や、高齢者の肉体関係に関係ない「愛」なども存在することがフォローされていない。
文春砲が鳴り響いた2016年、「ゲス不倫」などの言葉が話題となったが、別に世の中はフィジカルなセックスで動いているわけではない。愛のあり方も実に多様だ。
毎日新聞の2016年12月21日付夕刊には『東京ラブストーリー』『あすなろ白書』などで知られる柴門ふみのインタビューが掲載されている。『東京ラブストーリー』の続編『東京ラブストーリーAfter25years』が、連載を終了し、単行本化される。もともとの作品は「セックスしよ!」というセリフで話題となったが、今回、完治とリカは不倫させないと最初から決めていたという。「恋は必ず終わりを迎えるけれど人生は続く。恋が終わっても人は愛に支えられて生きている。それが続編『東京ラブストーリーAfter25years』で描きたかったこと」と柴門ふみは語る。
結局のところ、社会に革命を起こそうとしているデモなのにも関わらず、旧来の世界観、いや、少し前の時代の世界観に振り回されてしまっているのが大変に残念だ。
恋愛で苦しんでいる人がいることには激しく同意する。社会は解釈するだけではだめだ。変革するのだ。単に恋愛資本主義打倒ではなく、愛、そして生き方のオルタナティブを提示して欲しい。粉砕するべきは、クリスマスでも恋愛資本主義でもなく、この社会の生きづらさだ。市民の普遍的な方向性を先取りし、その明確な展望を切り拓いてほしい。生きづらさを解消すべく、断固たる実力闘争に起て。私からのエールである。
2016年12時5分追記
革命的非モテ同盟からツイッターで指摘あり
この記事も参照して頂きたいとのこと
根深い
「非モテ」の本質と問題の根深さ、10年に...|Abema TIMES
https://abematimes.com/posts/1810707