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【戦国こぼれ話】織田信長に最後まで抵抗したが、非業の死を遂げた朝倉義景

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
一乗谷朝倉氏遺跡(唐門)。(写真:イメージマート)

 本年10月、一乗谷朝倉氏遺跡博物館が新規オープンされると報道された。朝倉氏と言えば、織田信長に抵抗した義景が有名である。以下、義景と同盟者の浅井氏の最期を取り上げることにしよう。

■織田信長の出陣

 天正元年(1573)7月26日、織田信長は京都を発つと、巨大船で近江高島郡へ向かった。近江高島郡は、越前から南下する朝倉氏と江北の浅井氏との合流地点で、要衝の地だった。

 信長は木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)に軍勢を遣わし落城させると、両城を明智光秀に与えた。この戦いでの勝利により、織田方は湖西方面で優位になった。

 同年8月、浅井氏配下の阿閉氏、浅見氏が裏切り、信長のもとへと走った。2人の離反により、朝倉・浅井連合軍は不利となり、その後の戦いに大きな悪影響が生じた。

■朝倉氏の滅亡

 同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長の軍勢と戦った。信長は朝倉軍に勝利すると、そのまま朝倉軍を追撃したのである。

 織田軍は朝倉軍を次々と蹴散らしたので、朝倉軍は敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで、約3000の兵が落命したという。織田軍との戦いでは、朝倉氏の一族や重臣も討たれたので、朝倉氏はいっそう不利な状況に追い込まれた。

 同年8月、織田軍は敦賀から越前国内に侵攻すると、義景は一乗谷(福井市)から賢松寺(福井県大野市)に落ち延びた。一乗谷に居住していた武士、町人も、散り散りになって逃亡した。織田軍の猛攻に耐えかねたのだ。

 その間、義景の母、嫡男・阿君丸は織田軍に捕えられ、容赦なく殺された。同年8月20日、朝倉景鏡(義景の従兄弟)が織田方に寝返った。これが朝倉氏の敗因となり、義景は自害して果てた。こうして、朝倉氏は滅亡したのである。

■浅井氏の滅亡

 朝倉氏の滅亡後、信長は浅井氏の討伐に向かった。同年8月26日、信長は越前を発つと、虎御前山(滋賀県長浜市)に陣を置いた。浅井氏の居城・小谷城の近くである。

 翌8月27日に羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸を攻撃すると、その翌日に久政(長政の父)が自害に追い込まれた。9月1日には小谷城が落城し、長政も自害したのである。

 長政の妻のお市(信長の妹)と娘の3人(茶々、初、江)は辛うじて城を脱出したが、嫡男で10歳の万福丸は織田軍に捕えられ、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で磔刑に処せられた。

 一連の戦いにより、浅井氏は滅亡した。秀吉は大いに軍功を挙げたので、信長から浅井氏の旧領が与えられたのである。これが秀吉の栄達の第一歩となった。

■むすび

 戦後、信長は久政・長政の首に箔濃(はくだみ。漆を塗り金粉を施すこと)を施し、家臣に披露した。このエピソードは、信長の残酷性をあらわしているとの見解もあるが、首に敬意を払った死化粧であるとの意見もある。

 しかし、首を箔濃にした例は聞いたことがなく、家臣らは驚いたに違いない。こうして信長は、長年にわたり抗争を繰り広げた朝倉義景・浅井長政を討伐し、越前と近江を支配下に収めたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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