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大河ドラマではスルーされた、五奉行のひとり長束正家のあまりに悲惨な最期とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
水口城跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で西軍が東軍に敗れ、戦いは幕を閉じた。ところで、大河ドラマでは取り上げられなかったが、五奉行のひとりの長束正家の最期は実に悲惨だった。その辺りを取り上げることにしよう。

 長束正家は安国寺恵瓊らとともに南宮山に布陣していたが、西軍の敗北を知ると、ただちに逃亡した。しかし、その後の正家の動きについては、不明な点が多い。長束正家は居城の水口城(滋賀県甲賀市)に逃げ込んだが、東軍はそこへ軍勢を送り込んで、討ち果たしたという(「近衛家文書」)。

 ところが、『舜旧記』では、日野(滋賀県日野町)で討たれたことになっている。日野と水口は、直線距離で10キロメートルにも満たないので、そんなに離れているわけではない。

 参考までに言うと、二次史料の『関ヶ原御陣之図及略記』は、正家が水口城を捨てて日野に落ち延び、そこで自害したと記している。その後、正家の首は、三条河原で獄門となった。

 『時慶卿記』によると、正家が亡くなったのは10月1日と記す。一方、『舜旧記』は9月30日条に書かれているので、正家が亡くなったのは、それ以前ということになろう。なお、『舜旧記』は10月1日に正家の首が梟首されたと記す。

 水口城を攻めたのは池田長吉(輝政の弟)と書かれている(『寛政重修諸家譜』)。正家は戦うことなく、長吉に助命を求めた。しかし、長吉は正家が敵の張本人であるゆえ許さず、切腹させた。その後、長吉は恩賞として、正家が蓄えていた金銀を与えられた。長吉に協力して正家を討ったのは、亀井茲矩と山岡道阿弥である。

 そのほかの二次史料を交えて、関ヶ原合戦後の正家の動向を探ると、次のようになろう。南宮山から逃亡した正家は、山岡道阿弥に追撃されながらも居城の水口城を目指した。その途中で弟の玄春が捕縛され、直後に斬首された。

 正家はなんとか水口城に入ると、亀井茲矩と池田長吉が本領安堵を条件として投降を求めた。正家は投降に応じて城を出たところ、家臣ともども捕らえられた。そして、正家は弟の長吉や家臣ともども切腹を命じられ、自害して果てたのである。正家の墓所は、安乗寺(滋賀県日野町)にある。

 しかし、長束家は完全に滅亡したわけではなかった。自害した弟の直吉の子孫は、広島藩の浅野家に召し抱えられた。正家の嫡男・助信は、小倉藩の細川氏に仕官し、500石を与えられた。しかし、長束姓が憚られたのか、田中半左衛門と名を改め、細川家が肥後に移ってからも子孫は存続した。

 もう一人の正家の子の還誉岌閑は、長束家の遺臣・山本浅右衛門に育てられた。長じて、還誉岌閑は大徳寺(滋賀県甲賀市)に入り、岌誉脱空のもとで修行した。寛永2年(1625)に大徳寺三世となり、さらにその後は真福寺を再興した。

 正家の最期は決して明確ではないが、一族は完全に滅亡したのではなく、その子孫は何とか残ったのである。

主要参考文献

渡邊大門『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』(柏書房、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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