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【光る君へ】紫式部の生没年は、なぜわからないのか。その理由を考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
紫式部とゆかりの深い石山寺。(写真:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公は、吉高由里子さんが演じる紫式部である。

 紫式部は日本文学の最高峰といわれる『源氏物語』を書いたのだから、その生涯は詳しく知られているように思われるが、実際は関係史料が乏しく、そのようなことはない。それどころか、生没年すらわかっていない。それはなぜだろうか。

 最初に、歴史上の人物(特に古代・中世)の生没年がどのようにして判明するのか、考えることにしよう。もっとも最良なのは、一次史料たる公家日記の記事などに生年あるいは没年が記載されていることである。

 生年の記載がなくても、没年齢が記されていれば、そこから逆算して生年を導き出すことができる(没年齢が書いていないこともある)。もっとも、このようなケースは、さほど多くみられるわけではない。

 比較的多いのは、系図や軍記物語などの二次史料(後世の編纂物)に生没年が記載されているケースである。先述した一次史料をベースにして、こうした二次史料を援用し、生没年を確定する例のほうが多い。あるいは、二次史料でしか生没年がわからない場合は、そのまま踏襲することもある。

 ところが、問題なのは複数の二次史料によって、生年や没年の年代に相違があることで、この場合は「諸説あり」ということで、複数の生年(または没年)の説を挙げて、今後の検討に委ねることになる。

 紫式部の生年は、天禄元年(970)、天禄2年(971)、天延2年(974)などの諸説あるが、いまだ定説を見ていない。『紫式部日記』には、紫式部が経典の文字が見えづらくなったことを示す一文がある。それは、老眼になったことをほのめかしていると推測された。

 この記事が書かれたのは、寛弘7年(1010)のことと考えられている。平安時代は今よりも平均寿命がかなり短く、40歳前後で老いを迎えていた。そこから逆算して、先述した諸説が提起されたのである。

 紫式部が記録上で最後に登場するのは、かつて『小右記』長和2年(1013)5月25日条の記事とされてきた。その後、『小右記』寛仁3年(1019)1月5日条の記事で、実資に応対した女房が紫式部であると比定された。

 この指摘により、少なくとも紫式部が寛仁3年(1019)まで存命だったという説が提起された。したがって、没年は同年以降ということになるが、いまだに議論があって没年の定説を見ない。

 いずれにしても、紫式部の生没年はある程度の推測は可能であるが、残念ながら決定とまではいかない。今後の大きな課題といえるであろう。

主要参考文献

角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)

今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)

沢田正子『紫式部』(清水書院、2002年)

山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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