Yahoo!ニュース

【戦国こぼれ話】国宝松江城が完成したのは、堀尾吉晴の妻・大方殿のおかげだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
国宝松江城が完成したのは、堀尾吉晴の妻・大方殿の尽力があった。(写真:アフロ)

 近年の調査によると、島根県は観光地で2位にランクインしており、その目玉は国宝松江城だという。ところで、松江城完成の陰に、堀尾吉晴の妻・大方殿の貢献があったのはご存じだろうか。

■大方殿と堀尾吉晴

 堀尾吉晴の妻・大方殿は、織田家一族の津田氏の娘だったといわれている。ただし、この時代の女性の例に漏れず、生年や実名などは不明である。

 夫・堀尾吉晴は、尾張国出身の武将である。当初は織田信長に仕えていたが、その死後は豊臣秀吉に仕えた。

 秀吉とともに各地を転戦し、天正10年(1582)6月の本能寺の変以降は、丹波、若狭、近江、遠江などに所領を与えられた。

 秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らとともに、三中老に任じられたといわれているが、今では三中老の存在自体が疑問視されている。

■出雲国への移封と相次ぐ不幸

 関ヶ原合戦後の慶長五年(一六〇〇)、その軍功を認められ、出雲国富田(島根県安来市)に24万石を与えられた。

 しかし、富田は山深い不便な地だったため、吉晴は交通の便が良い場所を探した。そして、築かれたのが、今の松江城である。

 吉晴と大方殿がいつ結ばれたかは判然としないが、二女に恵まれたと伝わる。しかし、一女は自殺するという不幸に見舞われた。

 また、妾腹の忠氏は、松江城(島根県松江市)の築城中に蝮に噛まれて落命したという。相次ぐ不幸に、2人は大いに落胆したに違いない。

■大方殿の奮闘

 忠氏の亡き後、吉晴の孫・忠晴が跡を継いだ。また、松江城の築城はいったん滞ったものの、何としても果たさなければならなかった。その牽引となったのが、ほかならない大方殿であった。

 大方殿は鉢巻姿で腰元に薙刀を持たせると、普請中の現場を見回り、喧嘩などの取り締まりにあたった。

 家臣の夫人たちも総動員して、さまざまな作業に従事させたという。率先垂範する大方殿の姿を見れば、誰もが従わなくてはならなかった。

 また、現場の士気を高めるため、工事に駆り出された百姓らに茶を振舞った。腰元に命じて餅を作らせ、安く売ったこともあったという。

 このように、大方殿は松江城の築城に情熱を傾けたのである。それは、堀尾家やその家臣を守ることでもあった。

 慶長16年(1611)、無事松江城は完成した。それを見届けるかのように、夫の吉晴はこの世を去った。

 大方殿は出雲大社に築城の成功を祝し、たくさんの松を植樹した。今も、その松並木は残っている。

 そして、夫の死から8年後、大方殿もこの世を去ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

渡邊大門の最近の記事