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一発レッド社会の犠牲者を描いた『FAKE』──森達也は公共性の再構築を提起する

松谷創一郎ジャーナリスト
映画『FAKE』公式サイトより。

 今夜発表される日本アカデミー賞では、優秀作品賞と優秀監督賞に意外な名前がある。森達也監督の『福田村事件』だ。1923年の関東大震災直後に、千葉県の福田村で起きた実際の事件を描いた作品だ。小規模公開ながら、今回最優秀作品賞の候補作になった。
 監督の森達也はこの作品がはじめての劇映画となる。それまでオウム真理教を撮った『「A」』や『「A2」』などドキュメンタリー映画で知られた森が一般的にも知られるようになったのは、佐村河内守を追った『FAKE』だった。森はどのような角度で佐村河内に迫ったのか。当時の記事を再掲する(初出:朝日新聞社『論座』2016年7月5日)。

芸能ゴシップだった佐村河内守騒動

 2014年、佐村河内守のゴーストライター騒動が大きく報じられたとき、私も含めた多くのひとはこう思ったはずだ。

「それ、誰?」

 もちろん知っていたひともいたのだろうが、多くのひとはクラシックや現代音楽には興味がないし、テレビばかり観ているわけでもないから、知らなくても不思議ではない。だが、後に書籍『ペテン師と天才──佐村河内事件の全貌』としてまとめられた神山典士のスクープ記事によって、佐村河内守は一躍注目された。

 それは、多くのひとが楽しめる芸能ゴシップだった。

「派手な日本のベートーヴェンに、地味なゴーストライターがいた」──その“物語”は、とてもわかりやすい設定だったからだ。

 なにより芸能人の不倫騒動などと違って、ニュースの受け手にとって「明日は我が身」的な不安要素もない。あるいは、同時期に生じたSTAP細胞騒動のように、特定の業界への強烈なダメージもなく、死人も出ていない。

 佐村河内守のファンと関係者以外は、安全地帯から気楽に消費できる格好の題材だった。

 森達也のドキュメンタリー映画『FAKE』は、騒動が沈静化した2014年後半以降の佐村河内守を追った作品だ。

 映されるのは、ほとんどが佐村河内の住むマンションだ。妻の香と猫とともに静かに暮らすその家の中は、いつも薄暗い。そこで佐村河内は、新垣隆がオモチャにされる年末のテレビ番組を眺める。

 森達也は、過去にオウム真理教の信者をその内部から描いた『「A」』、『「A2」』で知られる。『FAKE』の前半部は、基本的にそれらの構造と変わらない。世間からひどくバッシングされた存在の懐に入り、そちらから世間の方を眺める。バッシング報道によって構築された観賞者の先入観は、そこでまず崩される。

 明らかとなるのは、佐村河内守の人となりだ。線路が見えるベランダでタバコを吸い、食事前に豆乳をごくごく飲み、そして「甲斐甲斐しい」という形容がぴったりな妻・香がいつも寄り添っている。

森達也は“真実B”を提示する?

 森達也作品に免疫がないひとは、これまでの報道で見られなかったこうした描写で徐々に認識が変わっていく。なかにはこう思うひともいるかもしれない。

「マスコミは嘘ばっかりだ! あれは真実じゃなかったんだ!」と。

 「マスゴミ」という表現がある。マスコミを揶揄するこのネットスラングは、概して大手マスコミを批判する文脈で用いられる。とくにそうした名指しをされるのは、朝日新聞やフジテレビ(※2016年当時)だ。

 このふたつのメディア企業が、思想的な立ち位置が正反対であることからもわかるように、「マスゴミ」という揶揄は特定の政治的イデオロギーから発せられるわけではない。この表現を用いる人は、もっと素朴に「マスコミは、“真実”を報道していない」という疑念を抱いていることが多い。

 そこでは、「誰もが納得できる透明の“真実”がある」とする前提も置かれている。このときに森達也は、マスコミの提示する“真実A”に対して、“真実B”を提示する存在だと見なされることも少なくない。

 10数年前、実際にそういうシーンを目撃したことがある。

 森の母校である立教大学で、過去の作品の上映会があったときのことだ。すべての作品が上映されたあと、立ち話をしていた筆者と森のもとに真面目そうな学生が歩み寄り、真っ直ぐな眼をしてこう言った。

「マスコミが嘘をついていることが、森さんの作品を観てわかりました! これが真実だったんですね!」

 “真実A”が“真実B”に一発置換された瞬間である。いま思えば、その学生の感性は“マスゴミ”感覚に近しいものだった。森達也作品は、こういう誤解も誘引しがちである。その言葉を受けたとき、森の困った表情と曖昧な態度がいまでも忘れられない。

「ダメ人間のダメっぷり」

 『FAKE』は、中盤過ぎまで佐村河内守の人となりをさんざん味わわせ、観賞者を油断させる。「世紀のペテン師」だと思われていた人物が、なんとも愛嬌のある存在だということがとてもよくわかるからだ。しかもその愛嬌は、彼の胡散臭さも含めてのものだ。つまり、「ダメ人間の愛嬌」なのである。

 この作品を最後まで観ても、佐村河内守を「まとも」だと感じるひとは少ないだろう。全聾ではなく難聴であることを必死にアピールし、新垣への手書きの指示書を見せて説明する姿は、滑稽な悪あがきにしか見えない。なんともショボい小物だということが、ひしひしと伝わってくる。でも、その滑稽さから発せられる人間性が、いつしか愛嬌に感じられてくる。

 しかしその「ダメ人間の愛嬌」にほだされる油断とは、ワイドショーを観て佐村河内守に好奇の目を向けていた欲求とも表裏一体だ。それらはともに、情緒的な判断でしかないからだ。

 観賞者は、徐々にそのことにも気付かされる。だからこそ、中盤から後半にかけて、膠着した展開に徐々にイライラしてくる。それが頂点に達するのは、外国のメディアから取材を受けるシーンだ。

 日本のマスコミとは違い、鋭く質問してくる取材陣に対し、佐村河内は回答に窮する。とくに「なぜシンセサイザーを捨てたのか?」という質問に対する回答は、呆れるしかないものだ。

「部屋が狭いから」

 ここまでさんざん「ダメ人間の愛嬌」を見せつけられてきたが、ここまでくるとそれを愛嬌だと感じられなくなってしまう。単なる「ダメ人間のダメっぷり」だからだ。ひたすらの徒労感である。

【以下は、作品のラストに触れる内容です】

 こうした状況下において、森は佐村河内にひとつの提案をする。

 「衝撃のラスト12分」と謳われているその結末は、そうした森の提案の結果だ。

 それは膠着していた展開、および佐村河内守の人生にとって、とても生産的なアイディアでもある。

 ただ、観終わったあと、観賞者は素直にその事態を飲み込めないだろう。

 「なんだ、できるのか」と思うひともいれば、「また誰かにやってもらったんじゃないの?」と疑念を抱くひともいるだろう。

 このどちらが正解かはわからない。いや、この正解を探ろうとする試みそのものを森は相対化し、混乱に陥れる。それこそが森の狙いである。

「犠牲者」のその後

 佐村河内騒動をスクープした神山典士は、『FAKE』を観て非常に興味深い感想を寄せている。「残酷なるかな、森達也」と題されたその記事は、森達也の取材姿勢を批判しながらも、結論としては、佐村河内に対して森は残酷だという感想を寄せている。

 ただなによりも秀逸なのは、この作品を「『中国の山奥に分け入ってジャイアントパンダの生態撮影に成功しました』という類の記録映画」と評した点だ。これは神山から森に向けられた最大限の揶揄でもあるが、しかしこの作品の特徴を端的に捉えた見事な一言でもある。

 前述したようにこの作品は、過去に「日本のベートーヴェン」と目された「世紀のペテン師」が、「愛嬌のあるダメ人間」を経て「単なるダメ人間」と認識されるプロセスをたどる。それは、人間の多面性を描いていることにほかならない。つまり、ジャイアントパンダならぬ「佐村河内守の生態」を描いているのだ。

 神山が読み違えているのは、森をジャーナリストだと捉えていることだ。森は、ドキュメンタリー監督でありノンフィクション作家であっても、ジャーナリストではない。これは森のエクスキューズなどではなく、過去の作品から一貫した姿勢である。

 森は、むかしから常にトリックスターだ。硬直した状況下で(結果的に)道化的に振る舞うことで、状況の緩和や再編を提起する。

 この作品では、「世紀のペテン師」だと思われていたジャイアントパンダが、単なるズボラなほ乳類だということを開陳することによってそれを導こうとする。この生態観察があるからこそ、この一連の出来事に狂騒していたワイドショー的な通俗的感性を徹底的した混乱に陥れる。

公共性の再構築

 『FAKE』はさまざまな論者からの批評を呼び、森も多くの媒体から取材を受けている。ただ、そこで注目されがちなのは、佐村河内守という題材よりも森達也のドキュメンタリーに対する姿勢についての言及だ。

 それは『「A」』や『「A2」』のときの反応と比べても明確な違いである。やはりそれは、多くの論者がさほど佐村河内守という人物に強い関心を示していないことを意味するのだろう。

 なので最後に、やはり佐村河内守を森達也が追った意味について触れておく必要があるだろう。なぜなら、この作品には森の「やさしさ」が充満しているからだ。

 しかしそれは、適用範囲が限定された情緒的な「やさしさ」とは異なり、適用範囲がより広汎な理性的な「やさしさ」――すなわち「公共性」とも言うべきものだ。過去にもオウム真理教や死刑制度についての言及で見られたように、まったく理解不能で絆を持てないような他者をいかに社会で受け止めていくか、森は常に考えてきた。

 4月上旬、筆者がマスコミ試写でこの作品を観ているときにずっと頭に浮かべていたのも、ショーンK氏のことだった。それから数週間前のこと、コメンテイターとして活躍していたショーン氏は、経歴詐称疑惑が取り沙汰され、すべての番組を降板して表舞台から消えた。

 筆者は、その4ヶ月ほど前の2015年12月、『Yahoo!ニュース個人』のイベントでショーン氏といっしょに仕事をしたばかりだった。司会を務めたショーン氏は、登壇した私を含む4人の記事をちゃんと読んできており、さらに話を全員に上手く回すなど、十分な役割を果たしていた。楽屋裏でもステージで見せる丁寧な物腰と変わらなかった。

 『FAKE』は、佐村河内守という通俗的な題材を扱うことにより、森のドキュメンタリーに対する思想をより一般に伝えるものとなっているが、もうひとつのテーマは“一発レッド社会の犠牲者のその後”である。

 過去にある総理大臣が“再チャレンジ”を掲げたことがあったが、結局日本は“一発レッド社会”や“不寛容社会”と呼ばれるようになってしまった。佐村河内にしろ、ショーン氏にしろ、それは“有名性”の代償として見なされることも少なくない。

 つまり、「嘘をついた人間の自業自得」という突き放しだ。もちろん彼らの瑕疵に対する批判は避けられないが、それにしてもやり過ぎだ。今年に入って、ベッキーや舛添都知事なども同様の犠牲者となった。

 そのとき大きな勢力となるのは、マスコミだけではなくネットだ。いまやTwitterでは、顔を真赤にして憤る“正義”の戦士と、他人のミスを探すことを生きがいとする“デフラグ屋”ばかりが幅を利かせている(他方で、最近はこうした層がネットではごく一部であることも、田中辰雄・山口真一著『ネット炎上の研究』などで明らかにされつつある)。

 それらは個々の自己責任を厳格化する新自由主義的な感性からなるが、しかし彼らは、みずからの言動がいつか自分たちにも向けられることへの想像力は乏しい。その先にあるのは、殺伐とした相互監視社会でしかないからだ。つまり、彼らは公共性も極めて乏しい。

 『FAKE』のラスト12分は、失敗した人間の再起の可能性を描くことで“一発レッド社会”へのアンチテーゼを示してもいる。つまり、森は佐村河内守という題材を使って、トリックスター的に振る舞うことで、日本社会の公共性の再構築を提起したのである。

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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