どうする家康完結! サイレント退場の服部半蔵のお守りの入手方法は?
関東圏の穴場ずらし旅の愛好家、とらべるじゃーな!です。
大河ドラマ「どうする家康」が完結。多くの家臣が先立ちましたが、健康に気遣った家康は、75歳(数え年)まで天寿を全うしました。
重要な家臣の1人、服部半蔵(正成)は55歳で世を去りましたが、どうする家康では、そのことに触れず、いわゆるサイレント退場となりました。今回は、半蔵の面影が感じられる、都内のゆかりの地への訪ね方をご紹介します。
最終回の余韻冷めやらぬなか、「どうする家康」のゆかりの地のなかで、岡崎城はじめ混雑しているスポットを除いた、ぜひ訪ねたい穴場をシリーズでご紹介します。
【第1回】どうする家康完結! 信康自刃「二俣城」には、村上春樹の世界の終り的な場所も
【第2回】どうする家康完結! 瀬名が落命した場所を暗示「謎の地蔵」とは?
服部半蔵(正成)が建てた安養院の跡
服部半蔵(正成)は、徳川家康とともに江戸に入ると、現在の半蔵門周辺に屋敷を構えたという説があります。晩年は、紀尾井町の清水谷公園周辺に、自邸と、自刃した松平信康を弔う安養院を建て、生涯供養を続けました。
アクセス 半蔵門…(徒歩10分強)…清水谷公園…(徒歩10分強)…四ツ谷駅…(徒歩10分)…西念寺(安養寺の移転先)
近江彦根藩井伊家の中屋敷
近江彦根藩井伊家の中屋敷(ホテルニューオータニ)と、紀伊和歌山藩紀伊徳川家の上屋敷(東京ガーデンテラス紀尾井町)のあいだに、水が湧いたことで名づけられたのが、清水谷(現在の清水谷公園)です。
井伊家は、どうする家康では井伊直政が徳川四天王として活躍。紀伊徳川家は、将軍・徳川吉宗を輩出しています。徳川家から将軍が出せない場合に、紀伊徳川家がバックアップする仕組みは、家康が考えたものです。
近江彦根藩井伊家の中屋敷(ホテルニューオータニ)は、ブラタモリも訪問しています。
【ブラタモリ大名屋敷 全ロケ地】タモリさんが東京の大名屋敷の秘密を探る#200・201(とらべるじゃーな!)
四ツ谷に残る西念寺
その後、江戸城が大きくなり、外堀が外に移されたため、安養院は現在の四ツ谷駅の西側に、「西念寺」と名を変え場所を移しました。西念寺は、四ツ谷駅から徒歩10分の場所にあります。
ときどき話題になる、写真の使用されていない不思議な空間は、江戸城の外堀の跡です。
四ツ谷駅前にある、江戸城外郭の御門の跡。
右上に見えている上智大は、当時の江戸城(外郭)の内部にあたります。上智大学は、清水谷公園周辺からも見え、安養院跡から西念寺への移転は、さほど遠い距離ではありません。
四ツ谷駅の麹町口(地下1階、改札外)には、江戸城外郭に関わる展示があります。また、麴町口を出てすぐには、外郭の石垣の跡がわずかに残されています(案内表示あり)。リンク先に掲載しました。
【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコース(とらべるじゃーな!)
西念寺への道
四ツ谷駅から徒歩10分。閑静な住宅地を抜けますが、古地図をみるとここは伊賀町。徳川家に仕えた、伊賀衆(伊賀忍者)が住んでいた一帯です。
西念寺です。
服部半蔵(正成)は、出家して西念と名乗り、安養院(紀尾井町)にて松平信康を弔いつつ余生を過ごしました。現在は、ここ西念寺がその遺志を引き継ぎ、服部半蔵のお墓もあります。
静かな本堂です。訪ねる人は多くありません。
服部半蔵(正成)が三方ヶ原合戦の戦功により、浜松城で徳川家康より拝領したと伝わる槍が保存されています。
服部半蔵(正成)の墓。お参りをしたところ、それに呼応するかのように木の葉が1枚舞ってきました。
本堂横の社務所では、忍者のデザインのお守りや御朱印が用意されています。
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