稀代のガッツマン、オリックスバファローズ・平野恵一選手が引退
こんな日が来るなんて、まったく想像できなかった。永遠に訪れないような気さえしていた。
関わった選手の中でもひときわ元気印。ケガも多かったが、超負けず嫌いの性格で何度もそのケガに打ち勝ってきた。今回もきっと屈することはないだろうと、復活を信じていた。
しかし…。
9月25日、オリックスバファローズ・平野恵一選手の引退会見が行われた。そこで語られたのは終始、「感謝の気持ち」だった。
■フェンス激突の大事故からの復活
強烈だった06年5月のフェンス激突。ファウルフライを追いかけて、頭からフェンスに突っ込んだ。選手生命どころか、自身の命の危機さえ感じたという大事故だった。周りからも「もういいよ、よく頑張ったよ」と言われる中、「いや、まだやる!必ず復活する!」という強い気持ちでリハビリに取り組んだ。「支えてくださったトレーナーの方々、治療してくれた先生、家族、ファンの皆さま…その人達に、必ず復活して恩返しするんだという気持ちだけだった」。その強い思いが、辛いリハビリを乗り越えさせてくれた。
そして同年9月、奇跡の復活を果たした。その時を振り返り、平野選手は「オリックスファンの歓声はホント、忘れられない。あれは言葉じゃ表せない。全身の震えと、ぐわって出てくる汗と…いや、涙か汗かわからないけど」と表現した後、「支えてくれた方にも伝わる拍手、歓声だったんじゃないかな」と話した。自分だけではないのだ。自分のこと以上に周りの人々が喜んでくれることが、自分の喜びなのだ。
だから復帰後も恐怖心はなかったという。「怖さより感謝の気持ちの方が強かった。自分の中では一度死んだと思っている。支えてくれている人たちに、いいプレーを絶対見せるという気持ちの方が強かったんで、恐怖心はなかった」と言い切る。
それまでも平野選手を支えてきたのは「感謝の気持ち」だった。「小学校5年から野球をやってきたけど、目をかけて応援してくれて、指導してくださった方々。その人達に『アイツに教えてよかった』『アイツを応援してよかった』と絶対に思わせようと。だってすごい選手やスター選手はたくさんいる中で、支えてくれて応援してくれている。そういう人達には恩返しできないくらい感謝している」。
だから、どんな時でも立ち上がってきた。「弱い気持ちになった時、ダメかな、辞めようかなと思った時に、(感謝の気持ちを)思い返して頑張ってきた」。その一心で前だけを向いてきた。
だが、とうとう「限界」が訪れた。
■頑張ってくれた小さな体に「お疲れさま」
きっかけは今年5月、右足かかとの肉離れだった。「そこから足全般。筋肉系だったり、関節だったり。次から次へと、日々移っていくというか…」。それでもチームの勝利に貢献しようと、今季中の復帰を目指して必死だった。「絶対にやるんだという気持ちだった」。
けれどリハビリから練習に合流し、ファームの試合に出るようになった時、己の体の声を聞いた。「周りは『元気、元気。動きはいい』と言ってくれるけど、自分の中の感覚がやっぱり…。自分の動きができなかった。これじゃ1軍で大事な試合で、ここでという時に期待に応えられないなと思った」。
絶対に譲れないポリシーがある。「1年間、仕事してナンボだと思っているんで。常に自分がレギュラー、自分がチームを引っ張るという気持ちでやってきた。それができない時は絶対に辞めなきゃいけない。自分が自信を持ってグラウンドに立てない時は辞める時だと思っていた」。
打つだけ、守るだけ、走るだけの選手ではない。全てをこなして、全てで結果を出して、自分の生きる場所を確保してきた。
だから決断した、ユニフォームを脱ぐことを。1m69cm、67kgの小さな体はもう悲鳴を上げている。「今までこの体はすごく頑張ってくれたけど、もうそろそろ許してあげようかな。お疲れさま、って言おうかなと思う」。
会見の前日、両親に報告するため帰省した。プロ入りした時、本当に喜んでくれた両親の笑顔は今でも忘れられない。一日でも長く、ユニフォーム姿を見ていてほしかった。「もう無理なのか…」。残念がった両親だったが、「長い間、お疲れさま。ありがとう」と労ってくれた。
■阪神タイガース時代の平野選手
私が見てきたタイガース時代の平野選手は、とにかく負けず嫌いだった。移籍当初、左投手の時にスタメンを外れることが多かった。すると、数少ない左投手の打席で打ちまくり、気づけば対右投手の打率を上回っていた。結果、投手の右左関係なく常にレギュラーで使われるようになった。当時、左投手攻略について訊くと、「だって悔しいじゃん」と一言。そう、負けず嫌いの悔しがり屋なのだ。
だからこそ、練習熱心だった。試合前、グラウンドでの練習のあと、必ず室内練習場に向かう。「練習前は混んでるからだよ」と、ひとり黙々とマシン相手に打ち込む。それが日課だった。
11年に導入された統一球には苦しんだ。いわゆる“飛ばないボール”と言われた反発係数の低いボールだ。「ホームランバッターじゃなく、ボクみたいな選手の方が影響を受けるんだよ。ファーストバウンドが全然違うんだから!死活問題だよ」。打率も前年の・350から・295に下げた。声を上げ続け、13年には反発係数も改良された。
必死な姿は先輩からは可愛がられ、後輩からは慕われた。特に金本知憲氏にはよくいじられていた。ある年のシーズン終盤、金本氏から「今年で引退するんや。今までありがとう」と打ち明けられた。実はこれ、金本氏が仕掛けたドッキリで、周りはみんな、平野選手が騙されていることを知っていたという用意周到さ。「オフレコ」だと口止めされていた平野選手は一人で抱え込み、淋しさを募らせていた。そして最終戦には、金本氏のバッティンググローブを着けて打席に立った。平野選手の手には大きくフィットせず、打撃には不都合だったが、自分なりの惜別の思いを込めたつもりだった。
ネタばらしは試合後だった。ベンチ裏でタオルに顔をうずめ泣いているように見えた金本氏に、どう声をかけていいのか逡巡していると、金本氏がガバッと顔を上げて一言、「うっそ~!(笑)」。やっと真相を知った平野選手は、長期間に渡って騙し通した先輩を追いかけ回して怒った。金本氏にとって、そうやってつい何かしたくなる可愛い後輩だったのだ。
また、ちびっこファンには殊のほか優しかった。小学校訪問ではバック宙を披露したり、イベントでは子供と真剣にダッシュの速さを競ったりした。どんな時でも決して手は抜かず、全力。そしてサービス精神旺盛だった。
■幸せな14年間
「何度ダメだ、何度辞めたいと思ったかわからない」という14年間。しかし「やりきった。幸せな14年間だった。プロ野球選手になれてよかったなと思う」と笑顔で言える。だから悔いも心残りも、そしてやり残したことも「ないですね!」とキッパリと言い切れた。「常に200%、300%、1000%やってきたんで」。清々しく話す平野選手に心から言いたい。
「本当にお疲れさまでした!ありがとうございました!」