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承久の乱 宇治川の先陣争い 佐々木信綱と同時に対岸に辿り着いた意外な武将

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月14日、鎌倉幕府軍は、宇治川を渡河し、官軍(後鳥羽上皇方)に攻撃を加えようとしました。

承久の乱における宇治川の戦いの一幕ですが、幕府軍の総大将・北条泰時は、自らも渡河しようとするも、味方である信濃国の武士・春日貞幸の「謀」(はかりごと)により、馬を隠されてしまい、その場に留まるしかありませんでした(貞幸は、泰時の介抱を受け、人一倍、恩義を感じ、泰時を戦で死なせたくないと考えたのでしょう)。

さて、先陣目指して、馬に乗り、宇治川を渡河しようとした佐々木信綱(幕府方)は、どうなったのでしょうか。ほぼ同時に川を渡ろうとした春日貞幸は、乗馬が敵方が放った矢に当たり、自らも川に放り出されて、危うく死にかけました。

芝田兼義の馬もまた貞幸と同じ運命を辿ります。多くの幕府方の将兵や馬が、宇治川の激流に呑み込まれていったのです。

そうしたなかにあって、佐々木信綱は先頭を切ってはいたのですが、中嶋で援軍を待っていたこともあり、そのせいで、向こう岸に着いたのは、北条時氏(北条泰時の子)と「同時」(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)という有様になってしまいます(時氏は父・泰時の命令を受けて、進軍開始)。

川岸には、官軍により、馬防のための太綱が設置されていましたが、信綱はそれを刀で両断します。馬が川に流されてしまった芝田兼義は水泳が上手かったので、何とか、川岸まで辿り着きました。対岸に到着し始めた幕府軍。官軍との死闘が迫っていました。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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