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大坂夏の陣迫る! 徳川方の快進撃と用意周到な作戦とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
二条城の国宝二の丸御殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣に突入する瞬間を描いていた。徳川方は交渉が決裂すると、豊臣家を滅ぼすために軍事行動を開始した。徳川方の行軍経路はどういうものだったのか、また軍勢の規模や定めた軍法などについて考えることにしよう。

 慶長20年(1615)4月15日、徳川家康は名古屋を出発すると、18日には京都二条城に入城した。遡ること4月10日、子の徳川秀忠も大軍勢を引き連れ江戸を出発し、21日に伏見城に到着した。

 この間、徳川方は各地の大名に出陣を要請していたので、京都、大坂の周辺はやって来た軍勢で押し合いへし合いの状況になっていた。徳川方の合戦準備は、万端整っていたのである。

 これ以前の4月4日、すでに秀忠は諸将に軍法(戦場での決まり)を発していた(『秀忠公御制法』)。全文は11ヶ条にわたるが、主要な部分を抜き出すと次のようになる。

①喧嘩口論を堅く禁止し、これに背く者があれば、理非を論ぜず双方とも処罰すること。
②抜け駆けは功名であるかもしれないが、軍法に背くことになるので罪科に処すこと。
③理由も無いのに他の部隊に加わった場合は、武具・馬とも取り上げること。
④奉行人の指示に逆らってはならないこと(奉行人は主君の命を受けて、戦闘などの指示を行っていた)。

 いずれの条文も軍隊の規律、統率を図るうえで、欠かすことができないものだった。特に、抜け駆けをしようとする者、功を焦って統率を乱す者は、処罰の対象となった。

 それは大坂冬の陣を轍(前田勢が真田丸の攻防で敗北を喫したこと)を踏まないためで、④の条文がその象徴といえよう。秀忠の大坂夏の陣にかける意気込みが伝わってくる。

 4月22日、二条城に滞在中の家康は、軍議を開き作戦を練り上げることにした。列席したのは、秀忠のほか本多正信・正純父子、土井利勝、安藤重信、藤堂高虎といった重臣や諸大名の面々である。

 軍議で検討した結果、徳川方は全軍を2つに分けて、次のコースで大坂城に攻め込むことにした。

①淀川左岸を南下して、河内を経由して大坂城に向かうコース。
②大和を経由して、大坂城に向かうコース。

 両軍は別ルートで進軍すると、大坂城から南東に約20キロメートル離れた道明寺(大阪府藤井寺市)付近で合流し、一気に大坂城を攻め落とすという作戦である。

 松平忠輝が率いる大和方面軍は約3万5千、家康・秀忠が率いる河内方面軍は約12万、計約15万5千という大軍勢だったといわれている。まさしく総力を結集したもので、豊臣方は接待絶命のピンチに陥ったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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