平安貴族は男子と女子のどちらの誕生を喜んだのか?その複雑な事情
大河ドラマ「光る君へ」は、紫式部を主人公とした平安時代が舞台である。当時の貴族にとって、後継者たる男子の誕生が望まれたのは事実だが、むろん女子の誕生も大いに歓迎された。それがなぜなのか、理由を考えることにしてみよう。
わが国では比較的最近まで、後継者となる男子の誕生が歓迎された。今では社会情勢の変化により、すっかり古臭い考え方になってしまったが、特に前近代社会では非常に重要なことだった。
そのため、公家であれ武家であれ、側室を迎えてまで、まず男子の誕生を望んだのである。ところが、貴族にとっては、女子の誕生が望まれる理由があった。
ドラマの中で、藤原兼家が円融天皇に入内することになった次女の詮子に対し、早く後継者たる男子を産むよう促していた。ドラマの内容を先取りするようだが、のちに詮子は一条天皇を産んだのである。
兼家が詮子に男子の誕生を望んだのは、関白になると同時に天皇の外戚として、権勢を振るうことにあった。しかし、兼家が摂政・関白に就任するのには、もう少し時間が掛かったのである。
このように、平安時代の上層に位置する貴族は、わが娘を天皇に入内させることに重要な意味を持っていた。目的は入内だけではなく、娘が次代の天皇となる男子を産むことにある。その男子が天皇として即位すれば、自らが摂政・関白として政権を担うことができるからである。
そのような事情から、わが娘が天皇に入内しても、男子が生まれなければ意味がなかった。長和2年(1013)、三条天皇の中宮となった妍子(藤原道長の娘)は、めでたく女子を産んだ。
しかし、この一報を耳にした道長は大変不機嫌で、不満な態度が露骨にあらわれていたという(『小右記』)。その理由は先述のとおりで、女子が生まれても意味がなく、将来的に天皇になりうる男子の誕生を希望していたからである。
逆に寛弘5年(1008)、一条天皇の中宮となった彰子(藤原道長の娘)は、めでたく男子を産んだ。のちの後一条天皇である。道長は彰子が男子を産んだと知ると、手放しの喜びようだったという(『小右記』)。その理由はいうまでもなく、彰子が皇位後継者たる男子を産んだからである。
つまり、上層の貴族に限って言えば、後継者たる男子だけでなく、天皇に入内させるために女子も必要だった。ただし、入内した娘が皇位後継者たる男子を産まなければならないという、過酷な条件があった。ある意味で、非常に残酷な時代だったのかもしれない。
主要参考文献
服藤早苗『平安朝 女性のライフサイクル』(吉川弘文館、1998年)