阪神・原口文仁選手は来季も変わらず「For someone」―誰かのために―
阪神タイガースの2019年は、近本光司選手と木浪聖也選手のルーキーコンビの活躍や、最後に6連勝でCS進出という明るいニュースも多かった一方、横田慎太郎選手(24)の引退など、忘れられないシーズンになりました。長く思えたのに終わってみれば短かったような…いろいろありすぎたからでしょうか。年明けに自身の病を公表した原口文仁選手(27)のこともしかり、ですね。
その原口選手が8日、兵庫県小野市で行われた『第6回小野ハーフマラソン2019』に参加。ハーフマラソンのリレー形式で5キロを走ったそうです。元気に駆ける姿を沿道でご覧になった方々は嬉しかったでしょうね。その声援を受けた原口選手も幸せだったと思います。来年1月18日には自身の名を冠した『原口文仁チャリティーランフェスティバルinすさみ』を開催予定。今度は和歌山の道を、皆さんと一緒に走ってください!
新たに自身の基金をスタート
また前日の7日、原口選手は「来季以降、自分の成績によって寄付をしていきたいという考えがあるので」と、新たに取り組む社会貢献活動を発表しました。内容は「安打、打点で1万円ずつ、施設に寄付できるようにしていきたい」というもの。つまり1安打につき1万円、1打点につき1万円なので、もし1試合3安打3打点だったら、これだけで6万円ですね。「相当な額になると思うので頑張ります!」と張り切っていました。
病気がわかった直後から、大腸がん啓発チャリティーグッズとしてグッチブレス(ブレスレット)を発売し、利益をがん患者支援団体へ寄付することを発表していた原口選手。その寄付金を11月21日に、小児がんなど医療的ケアが必要な子どもや家族のための滞在型療養施設『チャイルド・ケモ・ハウス』(神戸市内)へ届けたのが、今回の活動をしようというきっかけになったそうです。
「ブレスなど多くの方にご協力いただき、チャイルド・ケモ・ハウスさんに寄付させてもらった時に子どもたちの明るい表情を見て、まだまだ野球選手でいる間に何かできることはないかなと考えた。自分の成績がそういうチャリティーとか寄付につながることが、野球を頑張る1つの理由でもあるので。それを力の源にして頑張りたいと思います」
原動力は「誰かのために」という気持ち
現役中はずっと継続したい?「そうですね、続けたいですね。内容は今後、変わっていくかもしれないですけど、そういう活動は続けていきたいです」。どの施設に、どのような形で寄付するかというのはまだ確定していないそうで「決まり次第、報告させていただきます」とのこと。
目標額は?「難しいですねえ。それはもう、する気満々で言わせてもらっているので、たくさんできるように頑張るというのは僕の心に決めて発表させてもらったわけで。たくさんできるように頑張ります」。ちなみにホームランだったらプラスアルファとか、お立ち台でまたプラスとか?と聞いてみたのですが「それも検討ですねえ」と笑っていました。
自分で聞いたくせに何ですけど、よく考えたらホームランはそれだけで安打と打点があるので、プラスアルファは要りませんよね。ソロなら2万円だし、2ランは3万円、3ランで4万円、満塁弾だとそれ1本だけで5万円です。原口選手、すみません。忘れてください。まあサヨナラ打でお立ち台なら、ご祝儀ありかな?なんて、またプレッシャーをかけちゃダメですね。“気は心”です。
ことし1年、多くの方々に勇気や希望を与えてきて、来年以降もそれは変わらずに?と聞かれ「もちろん、この話は僕にずっとついて回るものだと思っているので。それはもう、ずっとです」と答えた原口選手。この“ずっとついて回る”という言葉で、先月24日行われた会見を思い出しました。
原口選手が2度目の告白をした理由
原口選手が大腸がんであることを明らかにしたのは1月24日で、それからちょうど10か月後の11月24日、改めて病気の詳細を公表しました。「そんな深刻ではなく、普通にポップな感じで聞いてください。皆さんを通じて(病気と闘っている方の)力になれるように、この立場を借りて発信していきたいと思っていますので、よろしくお願いします」と穏やかな表情で。
ポップな感じでと言われても…と躊躇していたら、まず本人がここまでの経過を説明。そのあと質疑応答に移りましたが、わかりやすいように順番を変えたり、省略した部分も結構あります。ご了承ください。
10年目のシーズンを迎えるにあたり、初めて人間ドックを受けたのが1月8日。その日にガンが見つかったそうです。1月26日に手術して1週間後に退院しましたが、術後の病理検査でステージ3のbと判明。よって抗がん剤(治療)もスタートしなくてはいけないため、野球をしながら治療できるように錠剤のものを2月6日から服用。4週間飲んで2週間休むというサイクルで4クール、半年続けました。
「体調がすぐれない日もありながら、首脳陣の方やトレーナーさんに練習内容などすごく配慮してくださって、ゲームで万全にプレーができるような環境を作っていただいたので本当に感謝しかないですね。皆さんのサポートのおかげで、1軍でシーズンを戦い抜けたのがすごくありがたかった」
そして、抗がん剤治療の最終日が7月9日。「その日がオールスター(プラスワン投票結果)の発表と重なっていて、ダブルで嬉しかったです。治療のひと区切りだった日にプラスワンの発表もしていただいて、すごく嬉しかった。その時は皆さんに言えなかったんですけど、そういう気持ちもありましたね」と振り返ります。
抗がん剤治療も無事に終了
抗がん剤の副作用について聞かれると「僕は意外と出なかった。ただ、今までなかった食べ物のアレルギーとか体質の変化がリハビリ中からあって。少し食べ物も気をつけ、確認しながらの1年でした」という返事。大好きな牛肉も、食べたら発疹や口内炎が出てしまったみたいです。鳴尾浜で見かけた記者さんから、顔が少し腫れていると聞いて心配だったんですけど、本人はそんな顔写真を自撮りしていたらしく「見ますか?」とニヤニヤ。もちろん遠慮しました。
今までが健康優良児のような原口選手にとって、これは少なからずストレスだったと思いますね。でも耐えられた。それは野球ができることに勝るものなど、なかったからでしょう。
加えて、原口選手を上回るほど前向きな奥さんとお嬢ちゃんの存在。本人が「ダブルで嬉しい日だった」という7月9日、抗がん剤治療の終了を祝おうと、奥さんはケーキを予約していました。そこへ新たな朗報が飛び込んできて、急きょプレートを追加オーダー。夜には“おつかれさま!”と“オールスター出場おめでとう!!”という、2枚のプレートを載せたケーキでお祝いしたそうです。
治療を続けながら1軍でプレーをしていたわけですが、「そこも先生が背中を押してくれて、体調に問題がなかったら好きな野球をどれだけやっても問題ないよと言ってくださった。薬を飲んでいたけど、自分の体調と1軍で活躍するための戦力まで持っていければ、まったく問題ないと言ってもらったので、本当に1軍でやれてよかったと思いますね」と振り返りました。
他の治療については「やっぱり手術しているので体をケアする時間がすごくかかって、もちろん自分でやるケアもそうなんですけど、治療の先生にもいくつか通いながらサポートしていただいています。そういうサポートがなかったら、あれだけ早い復帰は到底ありえない。僕の力だけでなく、トレーナーや病院関係者、治療の先生方の力が大きいとすごく感じているので、本当に感謝です」とのこと。
自分の“使命”を果たすために…
なぜこの11月24日というタイミングで、改めて公表することにしたのか?きっかけはやはり施設訪問だったみたいですね。「シーズン中から、どのタイミングがいいのか考えていて、先日チャリティー先のチャイルド・ケモ・ハウスを訪問した時、子どもたちの頑張っている姿に僕がすごく勇気づけられた。院長先生からも背中を押してもらうような言葉をかけていただいて、それで球団に相談して今日になりました」
この3日前の11月21日に、チャリティーグッズの売上金64万円と、自身で支出の36万円を合わせた100万円を寄付。そのあと子どもたちと一緒にキャッチボールや記念撮影で交流しました。そこの楠木院長から背中を押してもらったと言います。
「公表がよくないんじゃないかという意見もあったんですけど…。最初に発表した時に『使命』と自分で言って、でも病気の詳細をしゃべっていなかったから、ここまでやれるっていうことがわからないわけで。発表することによって、自分もああやって治療しながら仕事に復帰できるとか、スポーツをやれるとか、そういうところを伝えられたらなという思いで発表しようと考えました」
病気をして学んだことは?「命って限りがあるなと思いましたね、一番は。遅かれ早かれ、いつかは来るものですけど…それがいざ、この年齢で間近に来て、そういうものを感じました。今まで生きてきた人生で本当に満足だったかとか、まだまだ何かできたんじゃないかとか、そういうのはすごく感じて。もっと大切に時間を使わないとダメだと思ったりしました」
言葉をかみしめるような間があって、見ると目も潤んでいた原口選手。今回の公表に際して、自分自身は闘病中の方々の励みになれば、勇気づけられればという思いでいっぱいだったけど、反対意見も相当あったみたいです。当日の朝、家を出る瞬間まで迷い悩んでいたとか。そんなことも含めて、おそらく胸が詰まったのでしょう。
悔しさを味わうこともありがたい
来シーズン、そしてその先に描く野球人生を教えてください。「自分の中ではレギュラーを取って、たくさん活躍して、チームの中心で成績を残して、背中で引っ張っていけるような選手になりたいと思ってやっているので、そこを目標にしています。野球選手として野球も頑張るけど違う方向でもいろんな人を勇気づけられたら、自分にとって大きな意味もある。頑張っていく、ひとつの理由なので。野球で結果を残さないといけないなと、責任を感じています」
病気がわかってからの日々を「野球がなかったらどうなっていたかわからないし、野球がいろんなことを忘れさせてくれる時間でもあった」と振り返り、この経験を経て野球との向き合い方は変化したか?との問いに「今までは野球で悩むことも結果が出ないことも、すごく辛いことだったんですけど、考え方ひとつで幸せにも取れるし、なんてありがたいんだというふうにもとらえられるし。そういった部分では自分の悩みがすごく小さく感じたりもした」と答えました。
さらに「野球ができて、そこで悔しさを味わうことさえも、ありがたい」と。原口選手はさらりと言いましたが、これはものすごく重い言葉ですね。「だから、もっとやればいいじゃん、時間はたくさんあるし、やれることをやろう。自分のできることを思い切りやろう」と呼びかけます。
「明るい材料に」願いはそれだけ
「周りの人たちが心配してくれて、これを内緒にしてくれていた人はすごくナーバスになっていて…僕はもう元気なのでケロッとしているんですけど。そういうとこでも、元気にこうやって振り返れるんですよっていうのを伝えてもらったら、すごくありがたいです。これだけの病気をしても現場に復帰してやれるんだよと。体についての心配はもう全然、要らないです!あとは野球でケガをしないように。試合にどんどん出ていきたいですね」
そして最後にもう一度「明るい材料にしていただけたら。それだけです、僕の思いは。見た人が『俺もやれる』『私もやれる』と思ってもらえるように、よろしくお願いします。今(病気と)闘っている人たちにそう思ってもらえることが、きょう発表した意味だと。これから、この発表したことがずっと僕について回るので、そのためには結果を残して頑張りたいという思いです」と繰り返しました
反対を押し切ってでも原口選手が伝えたかったのは、これなのでしょう。もしかすると「あの時、公表しなかったらよかったのに」と言われることが今後あるかもしれません。でも野球で頑張って、自身の生きざまで証明していくんだという決意に見えました。負けることも挫けることもなく、ただ前へ進んでいく原口選手の背中が、はっきりと目に浮かびます。日本製鉄鹿島でプレーする帝京高校の後輩・島田直人選手が言ってくれた「原口さんは、誰かのために打つ人です」という言葉とともに…。
<掲載写真は筆者撮影>