明智光秀は織田信長の非道を阻止するため、本能寺を襲撃したのか
大河ドラマ「どうする家康」では、ついに明智光秀が織田信長を討った。明智光秀は織田信長の非道を阻止するため、本能寺を襲撃したという説があるが、それが事実なのか考えてみよう。
「信長非道阻止説」とは、信長が朝廷などに非道を行うので、光秀が阻止すべく信長を討ったという説である。信長の非道とは、次の5つである。
①正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画。
②京暦(宣明暦)への口出し。
③平姓将軍への任官。
④現職の太政大臣・近衛前久への暴言。
⑤正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜を焼き殺したこと。
はたして、信長非道阻止説とは妥当性のある説なのだろうか。
①の正親町の譲位は信長から提案されたもので、正親町は大喜びし、すぐに準備を進めようとした。結果として譲位は実現しなかったが、信長から強要されたものではない。また、皇位簒奪は、史料的な根拠のない事実無根の妄説である。
②は近年の研究によって、信長がなぜ口出しをしたのかわからないとされている。もともとは信長が用いた地方暦が日食を正しく予測しており、京暦はそうでなかったといわれていたが、実際には京暦も正しく予測していたという。
③は信長が歴史的に前例がない、平姓の将軍に就任することについて、光秀が許せなかったからだとされている。光秀は美濃源氏の土岐氏の一族・明智の一族であり、平姓の将軍の出現が歴史の秩序を乱すと考えたというが、根拠のない憶測に過ぎない。
④は、天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後、太政大臣だった前久が馬を降りて「私も駿河からまわっていいでしょうか」と尋ねたところ、信長は馬上から「近衛、お前なんかは木曽路を上ったらよい」と暴言を吐いたという。
信長が前久に暴言を吐いたことを示す根拠史料は、『甲陽軍鑑』である。しかし、信長の暴言はほかの史料には書かれておらず、あまりに荒唐無稽である。いかに『甲陽軍鑑』の価値が高まったとはいえ、とても史実として認めがたい。
⑤は、天正10年(1582)4月に織田信忠の軍勢が恵林寺(山梨県甲州市)を焼き払い、高僧の快川紹喜が焼死したことである。快川は正親町から大通智勝国師なる国師号を授けられ、しかも快川は美濃土岐氏の出身だった。光秀は快川と同族だったので、内心が穏やかではなかったという。
こちらも、根拠が提示されておらず、光秀が土岐氏の庶流・明智氏だったことは確証を得ない。
以上のとおり、「信長非道阻止説」は、誤った史実が根拠となっているか、根拠史料の性質が悪いか、または根拠のない憶測が多いので、とうてい成り立ち難いのである。