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三河一向一揆で徳川家康を裏切ったが、のちに栄達を遂げた本多正信

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本多正信を演じた松山ケンイチさん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、松山ケンイチさんが演じる本多正信が強い存在感を示していた。しかし、正信は永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発した際、あろうことか一揆方に弟の正重とともに与したが、その後はどうなったのか考えてみよう。

 家康は、正信が三河一向一揆に与したと聞いて、驚天動地の心境だったに違いない。正信は、反家康の上野城(愛知県豊田市)主の酒井忠尚と結んだという。かつて、松平広忠(家康の父)に仕えていた忠尚は、尾張の織田信秀に鞍替えした。

 ところが、忠尚は広忠から攻撃されて降参し、再び松平家に仕えた。その後も忠尚は松平家との交戦と和睦を繰り返し、態度が不鮮明だった。こうして正信は忠尚とともに上野城に籠城し、家康に歯向かったのである。

 永禄7年(1564)の春頃、三河一向一揆は家康に鎮圧されたが、正信は再び松平家に仕官するわけにはいかず、加賀国に逃亡したという。ほかの家康に歯向かった武将の多くも、事情は同じだった。

 その後、正信は加賀一向一揆を扇動し、織田信長と戦ったと伝わっているが、明確な根拠があるわけではない。時期は不明であるが、正信は大久保忠世の仲介によって、再び家康に仕えることを許された。以後、正信は家康に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。

 正信は家康から優れた行政手腕を認められ、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、甲斐や信濃の支配を命じられた。さらに、正信は武田氏旧臣に対して、家康の配下に加わるよう奔走したという。こうして正信は、頭角をあらわした。

 天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従すると、正信は従五位下、佐渡守に叙位任官された。その4年後に小田原北条氏が滅亡し、家康が江戸に本拠を定めると、正信は相模国玉縄(神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられたのである。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、正信は秀忠に従って真田昌幸・信繁父子が籠る上田城(長野県上田市)攻撃を行った。その際、正信は真田の巧みな戦いぶりに翻弄されたので、秀忠に攻撃を中止し、関ヶ原に向かうべきだと進言したという。

 しかし、秀忠は正信の助言を聞き入れず、これが関ヶ原へ遅参する原因になったといわれている。その後、家康の後継者をめぐって議論になったとき、正信は秀忠でなく、結城秀康(家康の次男)を推したというが、それが事実なのかは疑わしい。

 慶長8年(1603)の江戸幕府の開幕後、正信は側近として幕政を主導した。その2年後に家康が征夷大将軍を退き、駿府で大御所政治を展開すると、正信は子の正純とともに二代将軍となった秀忠を支え、のちに老中として処遇された。

 こうして江戸幕府は、正信らの活躍により、盤石な体制を築いたのである。元和2年(1616)4月に家康が病没すると、その2ヵ月後に正信はあとを追うようにして亡くなった。享年79。

主要参考文献

煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版、2015年)

小川雄・柴裕之編『図説 徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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