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嶋清興(左近)は関ヶ原合戦で戦死したのか、それとも戦場を離脱して生き残ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊吹山から見下ろす関ケ原。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で東軍が西軍に勝利した。合戦場面が省略気味なのは致し方ないが、石田三成配下の嶋清興(左近)は、戦場で死んだのか、逃亡して生き延びたのか諸説ある。この点について考えてみよう。

 慶長5年(1600)9月15日、清興は東軍の主力の黒田長政の軍勢と交戦した。三成の部隊は、長政の部隊の対面に位置していたという。

 清興は部隊を二手に分けると、片方の部隊には三成の部隊を守らせ、自身は片方の部隊を率いて長政の部隊へと出陣した。黒田勢の菅六之助は清興の姿を確認すると、鉄砲隊を率いて丘に登り、清興の率いる軍勢に発砲を命じた。

 清興の部隊は予想していなかった銃撃で不意を突かれたので、たちまち総崩れとなった。加えて、黒田勢に東軍の生駒一正、戸川達安の鉄砲隊が加勢したので、清興勢は窮地に陥ったのである。

 戦いの最中、清興自身も敵兵から銃弾を打ち込まれたので、瀕死の重傷を負いながらも、自陣にようやく撤退するような状況だったといわれている。

 その直後、東軍の長政、細川忠興、田中吉政の諸勢が三成の部隊に攻め込んできた。三成は自ら陣頭で指揮を執り、一時は東軍を押し返すような勢いだったが、やがて少しずつ厳しい状況に追い込まれた。

 清興も東軍を相手に大いに奮戦したが、力及ばず戦死したという。しかし、清興の最期あるいは生き残ったのかについては、さまざまな説が残っている。

 先にも触れたとおり、清興は奮戦の末に鉄砲に撃たれて怪我をし、壮絶な戦死を遂げたといわれている(『関原軍記大成』、『落穂集』)。これが通説である。

 清興の鬼人のようなの戦いぶりについて、徳川方は「誠に身の毛も立ちて、汗の出るなり」と恐怖したと伝わる(『常山紀談』)。清興の猛烈な戦いぶりは、後世に伝わったのだ。

 『常山紀談』は後世の編纂物なので、かなり誇張した表現になっていると考えられる。これらの史料は信頼度が落ちるが、清興が戦死したことを伝えている。

 一方で、清興の消息は不明であるとの説もある(『関ヶ原軍記』)。また、清興は戦場を離脱すると、のちに京都で潜伏生活を送り、寛永9年(1632)に亡くなったという説もある(『古今武家盛衰記』)。

 いずれの説も史料の性質に加え、清興が生き残ったという証拠が他にないので、首肯することはできない。清興は、戦場で亡くなったと見なすのが妥当だろう。

 概して清興のような名将の場合には、人々の間で戦死したのではなく、「生き残っていてほしい」という願望がある。後世に編纂された書物は、そうした人々の要望を受け、あえて生きていたことにしたと考えられる。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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