Yahoo!ニュース

広島カープ、マジック点灯。山本浩二が振り返る1975年の初V その3

楊順行スポーツライター
懐かしの広島市民球場(写真:アフロ)

1975年のセ・リーグは、後半戦も混戦が続いた。3チームが1ゲーム差以内になることもあり、地元はさらに盛り上がる。入場券は連日完売、ふだんは数千本しか売れないビールが2万本売れたという報道もあった。9月に入ると、5日からの巨人3連戦を2勝1分けとし、さらに12日からの巨人3連戦でも3連勝。広島が抜け出した。

「あの年は長嶋さんの監督1年目でね。そうそう、その巨人戦の間に、中日との"事件"があったんですよ。9月10日の広島球場。中日との25回戦は、われわれが首位、1ゲーム差で阪神、2ゲーム差で中日と、どちらも負けられない試合です。(当時の資料を見ながら)ああ、この試合の中日はセン(星野仙一)が先発してるんですか。

とにかく、ウチが2対5で負けていて9回裏、2点を返したんです。そして二死二塁から、私がセンター前にヒットを打ったんですが、同点のホームを狙った三村が新宅(洋志)さんのブロックでアウトになり、これでゲームセットです。ただ、新宅さんのタッチが三村の顔に入り、本人も吹っ飛んだ。これにはわれわれもカーッときました。センに3つもぶつけられていたし、三村も"あまりにひどいじゃないか"と詰め寄ってあわや乱闘になりかけたんです。またこれを見ていて興奮したファンが、グラウンドになだれ込んできてね。

そうなるとこっちは乱闘どころじゃない、ファンが誰彼かまわず殴りかかるから、まず中日の選手を守ろうと、三塁側ダグアウト前に立ちふさがって"来るな来るな!"。とにかく、広島のファンは熱狂的でしたから」

熱狂的なファンが演出した機微

当時の記事には、「興奮したファン約500人がグラウンドになだれ込んで中日選手を殴るなどした。また正面入口付近に約2000人が押しかけて中日選手用のバスと通路を取り囲んだため、中日ナインはベンチに閉じ込められた。広島県警、機動隊員250人が出動して試合後約1時間経った午後11時5分騒ぎを収め、中日選手は警官に守られて宿舎に引き上げた。暴行を働いたファン1人が、器物損壊現行犯で逮捕された。中日のローン、大島(康徳)、竹田(和史)選手らが打撲傷を負った」とある。

「ですから、3連戦の予定だったのが翌日の最終26回戦は中止です。ファンの乱入でフェンスがひしゃげたりして、とても試合ができる状態じゃない。この26回戦は結果的に、優勝を決めた巨人戦のあと、130試合目に組み込まれたんですが、もし日程どおり行われて、われわれが負けていたらどう転んだか、ちょっとした勝負のアヤですね」

なるほど。広島はこの9月10日の敗戦以後、ゴールまでわずか2敗、つまり最後の20試合を15勝3敗2分けという、すばらしいラストスパートを見せる。デッドヒートを繰り広げた2位中日とも、終わってみれば4・5ゲーム差をつける優勝だった。

「ただ、1年間の苦しさはものすごいものでした。優勝とは、こんなに苦しいものなのか、と。私は広島に生まれて広島に育ち、カープに入団し、そして初優勝も経験することができた。このあともたくさん優勝させてもらいましたが、比べものにならない、生涯忘れられない経験です。

この年は初めて3割を打って首位打者になり、MVPもいただきましたが、タイトルも個人成績も、優勝にまさるものはないんですよ。前の年の74年、中日が巨人のV10を阻止したから、センも優勝を経験しているでしょう。まだブチ(田淵幸一・当時阪神)だけ優勝していないとき、3人で"優勝すれば、自分の成績や年俸なんか二の次、三の次。チームが一つになる感激は大きいし、いろいろなプラスがあって人間的にも成長する。だからもう一度、優勝したくなる"という話をしたんです。ですが、ブチだけ実感できなかったんですね。それが西武にトレードになってブチも優勝を味わうと、"お前らのいっていた意味がわかったよ"と。

カープは、私が最初に監督をしていた91年以来優勝がありませんが、優勝というのは、自分一人だけ思っていてもできるものではありません。チームが一つにまとまって、どれだけがむしゃらにできるか。いまのチームも、これからが勝負でしょうね」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事