【河内長野市】南朝の行宮があった天野山金剛寺に、なぜか初代北朝天皇の分骨所があります。不思議!
天野山金剛寺は、女人高野など歴史ある寺院であることは、皆さんよくご存じだと思います。いろいろな歴史の中で、天野山金剛寺について個人的に驚くことといえば、南北朝時代の一時期に、南朝の拠点に加えて北朝側の上皇まで同居をしていた時期があることではないでしょうか?
北朝の上皇が天野山金剛寺に来ていたのは、天野山金剛寺(外部リンク)の記載によると、1354年から5年間、南朝の後村上天皇が金剛寺を行宮(あんぐう:仮の宮殿)とした時期と重なります。
天野殿が、南朝の政務を取った場所です。
天野殿は本来僧が食事をする場所の食堂(じきどう)で、国の重要文化財です。
摩尼院(まにいん)が南朝行在所(天皇の生活の場所)とのこと。この摩尼院は天野山金剛寺の子院です。
ちなみに摩尼院の書院の屋根は茅葺なので、山の上から眺めると周りの建物との違いが際立ちます。
天野殿が利用された中の3年あまり、1352年に京都から拉致された北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王が、1354年3月22日に金剛寺に連れてこられて幽閉されたとのこと。
三上皇のうち北朝2代の光明は、1年後の1355年8月に京都に戻されます。その2年後の1357年に、残りの北朝の皇族も京都に戻りました。
たとえわずかな期間でも、南朝と北朝の主だった皇族が住んでいた時期が河内長野の天野山金剛寺であったと考えるだけでも驚きますが、さらに光厳上皇の陵(分骨所)が敷地内に残っています。
光厳天皇陵は京都市右京区(旧京北町)の山の中に山國陵、嵯峨野にある天龍寺の前に光厳天皇髪塔があります。そして分骨所が天野山金剛寺の境内にあるため、光厳の墓は3つありその中のひとつとなります。
光厳天皇陵の場所を確認すると、金堂のある境内の奥、観月堂・御影堂のさらに奥の山の中にあります。
左が観月堂・御影堂で右が法貝蔵です。観月堂・御影堂、法貝蔵のいずれも豊臣秀頼が建立したとのことで、すべて国の重要文化財です。光厳天皇陵へは間にある階段を上がっていきます。
手前に見えるのは開山堂で、元禄時代に五代将軍徳川綱吉が建立したとのこと。開山堂も国の重要文化財です。そして開山堂からみて左側の高台にあるのが光厳天皇陵です。
階段を上がったところに光厳天皇陵があります。
菊の紋がついた扉です。
宮内庁の看板があります。
柵に囲まれた分骨所の真ん中にある供養塔です。
ということで、光厳天皇陵に参拝しました。
後村上天皇陵など南朝に関する史跡は場所柄多いのはわかりますが、一時期幽閉された場所とはいえ、北朝の天皇だった方の分骨所があるのは少し不思議な気がしました。
光厳天皇陵に立ち寄ったついでの休憩にちょうど良いのが、天野山金剛寺の隣にあるmonzen.さんです。カフェの様子が南天苑、岩湧山とともに外国人向けの動画にて、18分48秒くらいから紹介されています。
さて、6月11日 火曜日の10:00〜15:00まで、monzen.さんで「ちいさなイベント —monzen.no催し —」を開催するという情報を得ました。以下のお店が出店者です。興味がある方はぜひ。
- たねのここねさん-下里近くの小山田で自然栽培の野菜作り
- 風露さん - お花
- otono波さん - 占い
- 和韓ごはんと、甘いのと。さん - キンパ
- iiilo さん - アクセサリー
- ビーアース734さん - クラフト布バック
- ルリアンcafeさん- キッチンカー
- monzen.さん - 甘いもの
光厳天皇陵(分骨所)
住所:大阪府河内長野市天野町(天野山金剛寺境内)
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 天野山バス停から徒歩5分
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