ナレ死した徳川家康の側室「お愛の方」は、2代将軍秀忠を生み、盲目の女性を助けた
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の側室のお愛の方(西郷局)が亡くなった。ナレ死である。短い生涯ながらも強い印象を残したお愛の方の生涯について、ざっくりと追ってみることにしよう。
天文21年(1552)、戸塚忠春の娘としてお愛の方は誕生した(誕生年は諸説あり)が、忠春の娘ではなかったという説がある。戸塚氏は、西郷氏に仕える地侍だったという。
母は、三河の国衆西郷氏の流れを汲む女性だったという。一説によると、お愛の方は誠実で温和な性格で、大変美しい女性だったと伝わっている。むろん、それは単なる伝承に過ぎない。
お愛の方が幼い頃、不幸なことに父と兄の忠家が相次いで亡くなった。生活に困ったお愛の方と母は、母の祖父の西郷正勝のもとで庇護されることになった。のちに、母は正勝の嫡孫の義勝と結婚したといわれている。お愛の方の母は、義勝との間に一男一女を授かった。
ところが、元亀2年(1571)に義勝は武田氏との交戦中に戦死した。2人の間の男子は、諸事情から西郷家の家督を継承できなかったと伝わるが、明確な理由は不明である。義勝の死によって、再び路頭に迷ったお愛の方らは、藤正尚の屋敷に身を置いたのである。
天正6年(1578)、徳川家康が正尚の屋敷を訪れると、お愛の方に一目惚れし、そのまま浜松城に連れて帰ったという。その後、お愛の方は伯父の西郷清員(正勝の子)の養女になり、家康の側室に迎えられた。やがて、お愛の方は生家の西郷氏にちなんで、西郷局と称されるようになったのである。
翌年4月、お愛の方は秀忠を生んだ。のちに家康は、次男の秀康ではなく、三男の秀忠に征夷大将軍の座を譲った。天正8年(1580)9月、のちに武蔵忍藩主、尾張清洲藩主を歴任した忠吉を産んだ。
天正7年(1579)7月、家康の正室の瀬名(築山殿)が死に追いやられたので、西郷局は良く家康を支えたという。家康だけでなく、家臣からの信頼も厚かったと伝わっている。
『家忠日記』には「西郷殿」と、正室を示す「殿」で書かれているので、実質的には正室だったという説もある。また、お愛の方は極度の近視だったといわれており、盲目の女性に衣服や食糧を施すなどし、その生活を支え続けたという。
天正17年(1589)5月、お愛の方は駿府(静岡市葵区)で亡くなった。享年28(30という説もある)。その死に際しては、多くの盲目の女性が生前の施しに感謝し、寺の前で冥福を祈ったという。