ハドソン研究所の石破論文について ②
○政治家のメッセージについて
政治家は、様々なメッセージを打ち出すことが求められる職業である。そして、内容やタイミングが適切であったかどうか、また本人がどれだけ関与したかどうかを含めても、既に発出されたメッセージには責任が伴う。では、石破首相はこのタイミングでどのようなメッセージを出す必要があったのか検討してみる。
外交安全保障に関わる政策提言を分類するとすれば、戦略環境認識等に関わるものを除くと、政治家個人の思想信条を表明するもの、政策のフレームワークを提示するもの、そして具体的な政策手段の選択を表明するもの、などに分かれる。もちろん、これらが渾然一体として表明されるケースが多く、このように単純に分類できるものではない。ただし、提言には中核的なメッセージが含まれ、それが伝えたい相手に正確に伝わるように工夫する必要がある。
政治家の発言にもメッセージが含まれるが、文章で表現する方が、多くのメッセージを含みうる。たとえば2009年のオバマ大統領のプラハ演説では「核兵器なき世界」をめざす、という強烈でシンプルなメッセージを世界は受け取ったが、よく演説文を読んでみると、核廃絶についての言及はほぼ皆無であった。つまり、世界はオバマ大統領のメッセージを、自分の期待に基づき、誤解して受け取ったのである。オバマ大統領がこれを意図した訳ではないだろうが、複雑なメッセージには、送り手と受け手の齟齬や、相手の曲解などがつきまとう。
石破首相のハドソンへの寄稿文で大きく注目されたのは、「アジア版NATO」と「核シェアリング」であった。その後の記者会見などで石破首相が説明すればするほど、言葉の定義、論理的な整合性、さらには政策的な妥当性などに疑問が持たれ、正直に言って、メッセージの発出に失敗したとしか思えないものとなった。つまり、日米での議論の状況を見ると、受け手に正確にメッセージを伝えることに失敗したのではないかとの感想を持つ。
○石破首相が伝えるべきもの
ハドソン研究所への寄稿文の文脈を考えると、米国の安全保障コミュニティをメッセージの受け手と考えていたことは間違いないだろう。それは翻って、日米の安全保障に関わる論議を活性化するとの期待もあったのだろう。
そこで石破論文には三つ問題がある。
第一の問題は、日米両国を含め、国際社会の安全保障論議は、これまでの政策の発展の歴史の「先」になければならないということである。平たくいうと、過去の経緯を踏まえ、将来の方向を示すことが求められている。たとえば、石破論文の中に登場するQUADは、そもそも対中政策を念頭に置いていたものではなく、安全保障の重層化(地域や争点、協力関係など)を進めるプラットフォームとして設立された。その発展を日本が対中政策の道具として使用する意思を示すのは、それまでの経緯を無視し、関係国の警戒を呼び起こすものになる。
さらには、石破首相の記者会見などを通じ、「アジア版NATO」に将来的には中国が入る可能性を排除しないと表明しているが、その主張からは集団的自衛権や共同防衛を基本的な役割と規定する組織と、OSCEのような協調的安全保障の組織との混同が感じられる。特に後者の組織に関わる問題に限定すれば、すでに域内に存在するARFなどの協議体と、提案した「アジア版NATO」との関係性についても説明すべきであろう。石破論文には、現状をふまえ、なぜ新しい組織が必要なのか、その組織にどのような役割を担わせるのか、という視点が決定的に欠けているように見える。
現在は過去の蓄積の上に構築されるという現実を考えるとすれば、石破首相は注目を集めるような言葉を選択することの集中するのではなく、「これまでの政策」をどのように発展させるべきなのかについて、自身の政策方針を説明した方がよかったと思う。
第二の問題は、政策は単独に存在するものではないという点である。政策は、それを実施する上で必要な条件がある。これはたとえば、憲法改正しなければ、完全な集団的自衛権の行使ができない、とする主張などを考えるとわかりやすい。また、核兵器の問題を考える上で、非核三原則の問題や、NPTの問題などを抜きに考えることもできないだろう。したがって、政策提言は到達地点に至るまでのプロセスを説明することが重要であり、その過程で政治家がどのような取捨選択をするのかという点を明確にする必要がある。
「核シェアリング」の部分で注目されたように、石破首相が米国の抑止に不安を持つのは当然である。拡大抑止の下にある国は、核兵器国の関与の信頼性について懸念を持つ場合が多く、その信頼性をどのように担保するかに腐心する。しかし、その信頼性の確保の方法には、核兵器の保持・不保持位以外の方策が複数存在する。日本の安全保障政策では、国内に存在する「核アレルギー」との共存を図り、また米国の安全保障政策との適合性を求め、さまざまな工夫をしてきた。それは、一つの解決方法では解けない、政策のパズルに真剣に向き合い、さまざまな政策相互の調和を図ってきた結果である。
第三の問題は、政策のインプリケーションの拡大に対する理解の問題である。日本が選択する政策は、米国を含め、域内各国を巻き込んでいくことになる。場合によっては、中国がこれに反発し、日本に対する圧力を強めたり、日米同盟に対決的な姿勢を示し、それこそ国際構造を変える政策を展開することにつながる可能性もある。つまり、石破論文は、自身の世界観や戦略認識、政策選択の方法を語っているだけなのかもしれないが、それを語るだけでは、「危なくて」付いてくる国はいなくなる。
重要な点は、この政策提言の内容に、どれだけ普遍的な内容が含まれ、どれだけこの提言が地域や世界の安心や安全につながるのかに関する視点が十分に盛り込まれていないことである。つまり、換言すれば、政策提言がインド太平洋における国際公共財としての意義を含んでいないという点である。
○石破首相に求めたいこと
政治家の言葉の問題に戻ることとする。日本にとって、安全保障政策が日米同盟のマネージメントだけであった時代は数十年前に終わっている。これは、石破氏が一番よく気が付いているだろう。防衛庁や防衛省が「自衛隊管理庁」と呼ばれていた時代は過ぎ、国家の安全保障戦略の構想を主導するまでに至っている。二国間や多国間の安全保障協力も増加し、米国もこれを積極的に後押しし、それを自身のインド太平洋戦略に活用している。
つまり、日本の安全保障政策は、国際社会の中で単独に存在するものではない。数多くの国の協力が必要になっており、日本と協力することが彼らにとってもメリットになる相互作用を構築していく必要があるものへと変貌している。そこには、安全保障政策の課題であるサイバーセキュリティや軍備管理軍縮、さらには新興技術問題などが含まれる。
もしかしたら、論文内で提案されたさまざまな政策手段は、それ自体不自然なものではないのかもしれない。だとすれば、石破首相には、論文で提案された内容を将来の目標として、そこに至る政策のフレームワークを提示してほしいと思う。それは、日米両国を含め、関係する国がその提案に乗ることで、それぞれの利益になる道筋が明確でなければならない。フレームワークは、組織構成やレジームのことを言っているのではない。それは、各国が納得できるインセンティブの管理の方法を示すことではないかと考える。
以上