平岩親吉が泣く泣く水野信元を斬り捨てた事情
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、平岩親吉が背後から水野信元を斬り捨てた。親吉とはいかなる人物だったのかを考えてみよう。
そもそも平岩氏は、三河国額田郡坂崎郷(愛知県幸田町)に本拠を置く土豪だった。その後、平岩重益は本拠を同国戸呂(土呂)郷に移したという。重益が天文19年(1550)に没すると、家督を継いだのが子の親重である。
親重の代になって、松平家に仕えるようになった。しかし、親重は京都から岡崎城(愛知県岡崎市)に戻ったとき、城内に滞在していた食客の武士の無礼を許すことができず、殺してしまった。猛省した親重は、そのまま坂崎郷に隠退したという。
親吉が親重の子として誕生したのは、天文11年(1542)のことである。誕生年は、徳川家康と同じである。幼い家康が今川家の人質になったとき、親吉も小姓として駿府(静岡市葵区)に同行した。
親吉は永禄元年(1558)の初陣以降、家康に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。それゆえ家康から全幅の信頼を寄せられ、子の信康が元服した際には、傅役を任された。こうして親吉は、岡崎城において信康を補佐したのである。
天正3年(1576)12月、織田家の重臣・佐久間信盛が水野信元を讒言し、報告を受けた信長は家康に信元を処分するよう命じた。その後、久松俊勝が案内役として、大樹寺(愛知県岡崎市)に信元を連れてきたが、これは信元をおびき寄せる罠だった。
信元を殺害するよう命じられたのは、親吉だった。信元を斬った親吉は、「信元殿には恨みはないが、主の命令なので止むを得ず刃を向けてしまった」と涙ながらに謝罪したと伝わっている。親吉にとっては、むろん不本意なことであった。
なお、親吉は信康と瀬名の事件に際しても、さまざまな逸話が残るが、その点は追って取り上げることにしよう。その後の親吉は、上野厩橋(群馬県前橋市)、甲斐甲府(山梨県甲府市)を与えられ、最後は初代の犬山藩主になった。徳川十六神将の1人でもある。