「大豆田とわ子」のいない火曜日に考える、あのドラマは何だったのか?
「大豆田とわ子」のいない火曜日
今日(6月22日)は火曜日。でも、「大豆田とわ子」には会えません。
松たか子主演『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)は、先週、最終回を迎えました。
「大豆田とわ子」のいない火曜日に、『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマは一体何だったのだろう、と考えてみます。
正直言って、「ああ、終わっちゃったのか」という喪失感があるほど、このドラマは気になる作品でした。
なぜ、気になったのか?
その理由はシンプルで、「見たことがないもの」だったからです。
まずドラマらしい波乱万丈、もしくは起伏に富んだ、「大きな物語」がありません。
脚本の坂元裕二さんが丁寧に描いたのは、とわ子(松)と別れた夫たち(松田龍平、角田晃広、岡田将生)の「関係性」です。
そして重視していたのは、登場人物たちの「対話」でした。
「対話編」というドラマ作法
このドラマは、全編が対話ベースだったと言っていい。
しかも彼らの言葉には隠れたニュアンスが仕込まれており、まるで警句や格言を集めた一冊の本のようでした。
とわ子の「人生に失敗はあったって、失敗した人生なんてない」という持論。
また、とわ子の親友・かごめ(市川実日子)が看破した、「(誰かを)面倒くさいって気持ちは好きと嫌いの間にあって、どっちかっていうと好きに近い」の真実。
このドラマで登場人物たちが発するのは、こうした単純そうな言葉です。しかし微妙かつ細やかに震動して、見る側の心にしみこんでくるように出来ていました。
平明にも見えるのですが、実はねちねちとしつこく、強靭な骨格を持った言葉です。
坂元さんは、対話の形でそれぞれの「思想」を生み出し、同時に人物の動きをそれに伴わせ、ドラマとして必要なだけの筋の面白さを組み立てていきました。
いわば、プラトンの著作のような堂々の「対話編」です。
「人生の肯定」というテーマ
そして、このドラマの基調には、「人生の肯定」というテーマがありました。
とわ子をはじめとする主要人物たちが、実際に人生を肯定できているかどうかはともかく、「人生を肯定したい」と思って生きていることは確かです。
しかも自分の人生だけでなく、他者の人生をも肯定しようとする姿勢でした。
とわ子たち4人は、自分の流儀を守ろうとするという意味で、明らかに、十分過ぎるくらい「面倒くさい」人たちです。
明るい暗いで言えば暗いかもしれません。
けれど、その暗さを土壌として、それに育てられつつ突き抜けて、人生の肯定に達しようとしていました。
自ら選んで1人で生きること。
夫婦や恋人の関係を超えて2人で生きること。
さらに、大切な亡き人とも、一緒に生きていくこと。
それらを丸ごと肯定してみせるドラマなど、やはりこれまでにはなかったのです。