【幕末こぼれ話】新選組の土方歳三が箱館山で詠んだ謎の俳句とは?
新選組副長の土方歳三は俳句を詠むことでも知られ、京都に上る以前に江戸で詠んだ句を集めた「豊玉発句集」が現在も残されている。
しかし、京都で新選組を結成して以降は、のんびり俳句をひねっている気持ちにはなれなかったのか、俳人としての姿はすっかり影をひそめてしまった。
そんな土方が、死の前年、箱館戦争のさなかに久々に詠んだとされる一句が伝わっている。
わが齢(よわい)氷る辺土に年送る
豊玉
これは本当に土方が詠んだ句であったのだろうか――。
箱館山の俳人・孤山堂無外
この句は原本が残されているわけではなく、昭和53年(1978)に刊行された『明治俳壇史』で、著者の村山古郷(こきょう)が紹介したことで知られるようになった。
同書によれば、明治元年(1868)の大みそか、箱館山のふもとにあった俳人の孤山堂無外の離れ座敷で風雅な俳諧の集いがあったという。無外は水戸の出身で、江戸で俳諧を学び、その後箱館に渡ってロシアとの貿易によって財産をなした商人だった。
当夜の俳席には15、6人が集まり、箱館の俳人たちの年忘れの会であるとともに、本土からはるばる渡ってきた4人の俳友の歓迎会でもあった。
「しかしその四人は、俳諧行脚の風流人ではない。官軍との戦いに敗れ、榎本武揚の軍に加わって蝦夷地に逃れてきたいくさ人であった。川村錦(録)四郎、中島三郎助、巨竹、それに豊玉の俳号を持つ土方歳三も交じっていた。
当夜の運座で最高点を占めたのは、
さざ波のままにみぎはの氷かな 木鶏
の句であった。木鶏は中島三郎助である。土方歳三は、
わが齢氷る辺土に年送る 豊玉
という句を作った。精悍な武人の悲憤慷慨の情を現している」(『明治俳壇史』)
土方が詠んだ句は、「思いがけず極寒の蝦夷地で年を越し、自分も年齢を重ねることになった」というほどの意味だ。年送りの感慨が込められた、秀作といっていいだろう。
句の出典をめぐる謎
ここで問題となるのは、『明治俳壇史』の著者村山古郷は、この句をどこから持ってきたのかということだ。すると、同書の巻末に参考文献が示されており、出典が昭和49年(1974)に刊行された俳句同人誌『万蕾(ばんらい)』第16号に、成瀬櫻桃子が寄稿した「俳人豊玉の死」にあることがわかった。
そこには確かに、孤山堂無外による句会が開かれた状況や、土方や中島三郎助らが詠んだ句が『明治俳壇史』と同様に記されており、村山古郷がこの「俳人豊玉の死」をもとに「わが齢――」の句を紹介したことが明らかである。
これにより、ここまでの先後関係は整理できた。しかし、肝心の「俳人豊玉の死」を、成瀬櫻桃子が何を参考に記したのかは、現段階ではわからないままなのだ。
寄稿が昭和49年であるから、明治維新からは相当の間がある。その間に発表されたなんらかの記事を参考にしていることは間違いないはずだが、いまのところそれがどのような文献なのか不明というほかないのである。
なお「俳人豊玉の死」には、土方に俳句の手ほどきをしたのは、少年時代に奉公をしていた松坂屋の番頭の忠助(雅号桐里)であったという初耳の情報も記されている。事実であれば、大変興味深い内容だ。
成瀬櫻桃子は、いったいどのような文献をもとに「俳人豊玉の死」を記したのか。それが判明しないことには、「わが齢氷る辺土に年送る」が本当に土方の詠んだ句なのかどうかも確定できないのである。
真実にたどりつくことができるまで、この件は調査を続行することとしたい。