【先取り「どうする家康」】松平家の不幸のはじまりとなった、「守山崩れ」と松平清康の死
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平家の不幸のはじまりとなった、「守山崩れ」と松平清康の死を取り上げることにしたい。
天文4年(1535)12月、三河に版図を広げた松平清康は、尾張に勢力を広げていた織田信秀を討つべく、1万余の軍勢を率いて尾張に侵攻した。
攻撃に際して、清康は甲斐の武田信虎、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、織田信秀の弟で犬山城(愛知県犬山市)の信光と連携し、周到に準備を進めていたという。
なお、清康が攻撃目標とした人物については、織田信秀と守山城の松平信定(清康の叔父)という2つの説があるが、信秀であるという説が有力である。ご存じのとおり、信秀は信長の父である。
清康が着陣したのは、守山城(名古屋市守山区)だった。その後、尾張に侵攻する計画だった。ところが、清康の家臣・阿部定吉には、信定らと内通しているという、不穏な噂が流れていた。
同12月5日、清康の本陣で馬が暴れるというアクシデントが起こると、定吉の子・弥七郎が清康を斬り殺したのである(守山崩れ)。弥七郎は馬が暴れた際、父の定吉が清康により成敗されたと思い込み、殺害に及んだといわれている。
弥七郎が勘違いしたのには、もちろん理由があった。前日の12月4日の夜、弥七郎は父の定吉から「流言により、自分は清康から成敗されるかもしれない」と聞かされていたからである。それゆえ、馬が暴れただけにもかかわらず、父が討たれたと勘違いしたのである。
結果、弥七郎は清康の家臣・植村氏明によって、その場で斬殺された。清康を失った松平方は、即座に本拠の岡崎へと引き上げたのである。『三河物語』には「清康が30歳まで生き長らえていれば、天下を治めることもできたはず」と、その死を悼んでいる。
「守山崩れ」で清康が横死すると、松平家の後継候補となったのが子の広忠(千松丸)である。広忠は、まだ10歳の子供に過ぎなかった。松平家は支配体制が崩壊し、事態は極めて厳しい状況にあった。
すると、一族の松平信定は松平宗家の家督を狙い、混乱に乗じて岡崎城を占拠した。まさしく清康の死は、松平家の不幸だったのである。