【その後の「鎌倉殿の13人」】北条義時の死後に勃発した伊賀氏の変で、「のえ」はどうなった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。北条義時の死後に勃発した伊賀氏の変を取り上げ、北条義時の妻「のえ」がどうなったのか、詳しく掘り下げてみよう。
北条義時が亡くなったのは、貞応3年(1224)6月13日のことである。義時の死因は諸説あるが、大河ドラマでは義時の妻「のえ」(伊賀の方)による毒殺説を採用していた。その背景にはいかなる事情があったのだろうか。
義時が亡くなった直後の貞応3年(1224)6月から閏7月にかけて、伊賀氏の変が勃発した。変の首謀者は、「のえ」のほか、伊賀氏一族の伊賀光宗、朝行、光重である。次に変の概要を説明しよう。
「のえ」らが義時の死後に謀反を起こした理由は、①義時の後継者として、「のえ」の実子の政村を執権に据えたかった、②「のえ」の娘婿の一条実雅を将軍に据えたかった、の2点になろう。①については、大河ドラマで「のえ」が口にしていたことである。
「のえ」らは幕府の実力者の三浦義村を頼りにしたが、義村は結果的に裏切った。北条政子は「のえ」らの不穏な動きを事前に察知し、陰謀を未然に防いだのである。結局、「のえ」らは本懐を遂げることができなかった。
変後、「のえ」は伊豆北条へ流罪となり、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ流された。政村は罪を問われることがなかったが、実雅はのちに越前に流された。
「のえ」は流罪となった直後、没したと考えられている(没年は不詳)。実雅も流された越前で、安貞2年(1228)で亡くなったとされている。とはいえ、処罰された人の復帰は早かった。光宗、朝行、光重は、政子が亡くなると復帰を許された。
伊賀氏の変が本当に計画されたのか否かは、にわかに判断できない。でっち上げという説もある。義時の死後、後家*である「のえ」が政治的な権力を持つことを恐れ、政子が先手を打った可能性もあろう。
つまり、政子からすれば、「のえ」や一条実雅がいなくなれば事足りるのであり、ほかの面々に厳罰を加える必要がなかった。ドラマでは「のえ」が悪しざまに描かれていたが、実は悲劇の女性だったかもしれない。
*後家は現在ではあまり意味ではないが、この時代は亡き夫に代わり、子を支える重要な役割を担っていた。