【戦国こぼれ話】生死をかけた戦国時代において、健康を保つことは非常に重要だったということ
テレビ番組、雑誌などを問わず、連日のように健康法が指南されている。健康に不安のある人なら、きっと気になるはず。それは戦国時代も同じで、敵に打ち勝ち、子孫を残すには、まず健康が重要だった。ここでは、徳川家康と毛利輝元の例を取り上げておこう。
■今も昔も健康は大事
戦国大名が健康でなければならないことは、当然のことであった。健康を保たなければ、戦乱の時代を生き抜くことができなかった。敵に打ち勝ち、何よりも後継者となる子孫を残すことすらできなかっただろう。目的は違うとはいえ、それは現代人も同じだろう。
戦国時代では、健康に不安のある者が廃嫡される不幸なこともあった。非常に厳しい時代だったのである。したがって、必然的に戦国大名は、健康を意識せざるを得なかったのである。
■徳川家康の健康法
徳川家康(1543~1616)は、当時としては高齢の74歳という長寿を保った。その秘訣は、いったいどこにあったのだろうか。
徳川家康は周知のとおり、幼少期を人質として過ごした時期がある。その影響もあって、質素倹約を旨とする生活が身についたようだ。その頃の習慣が続いたのか、家康の健康法の原点は、粗食にあったといわれている。若い頃から麦飯を食し、贅沢を避けていたという。
家康の好物は、魚、野菜、納豆など健康に良いものばかりで、暴飲暴食を避けていた。もちろん、飲酒もほどほどだった。愛知県の名物に八丁味噌があるが、家康はこれを焼き味噌にしてご飯をかきこんだという逸話が残っている。
何より家康は、健康マニアでもあった。薬学書の『本草綱目』、『和剤局方』を読みこなし、薬剤の研究に打ち込んでいた。その知識は生半可なものではなく、専門家も舌を巻くようなレベルだったという。
もちろん、健康法だけではなく、『吾妻鑑』(鎌倉幕府の歴史を記した史書)を講読するなど、非常に勉強熱心でもあった。『源氏物語』や中国の古典も読破したと伝わる。
武道の鍛錬も怠ることがなかったという。こうした質素倹約と文武両道とが、家康が天下を取った大きな要因だったのであろう。伊勢宗瑞(北条早雲)など長生きした戦国武将は数多いが、それぞれ独自の健康法を持っていたといわれている。
■毛利元就・輝元と医師
長生きするには自身の鍛錬だけでなく、医師の力も必要であった。ただし、現代医学とは異なり、外科手術などもなかったので、医師の技術はそれほど高いものと言えなかっただろう。ここでは、毛利元就・輝元の例を取り上げておこう。
文禄元年(1592)9月、曲直瀬(まなせ)道三(1507~1594)が朝鮮出兵中の毛利輝元の診療を行った。道三は医師として著名な人物で、朝廷や室町幕府にも出入りしていた。正親町天皇を診察したことがある。輝元は道三と懇意にしていたが、それは祖父の元就の時代までさかのぼる。
永禄9年(1566)、毛利元就は月山富田城(島根県安来市)の尼子義久を攻めていた最中に病に罹った。このとき道三は元就を診療し、『雲陣夜話』を記したことで知られる。『雲陣夜話』は、医術の基礎と治療法を説いた医学書である。その翌年には、『曲直瀬道三意見書』が元就に献上された。
『曲直瀬道三意見書』の内容は、毛利家の繁栄、武運長久を願ったもので、そのための心得を説いた意見書である。その内容は医学的なものではなく、むしろ生活習慣や心構えを述べており、長寿が生活と密接していることをあらわしている。
道三と毛利氏の関係は深く、朝鮮半島で輝元が道三の治療を受けたのもうなずける。天正2年(1574)、道三は『啓迪集』8巻を著し、同年に正親町天皇の診療を行った際に献上した。道三は、天皇からも厚い信頼を得ていたのである。
その成果があって、元就は75歳、輝元は73歳という、当時としては長寿を全うした。何よりも道三自身は、驚異的な88歳まで生きたという。
戦国武将はともかくとして、われわれ現代人も健康的な食事を摂取し、定期的に健康診断を受け、具合が悪くなったらすぐに病院に行くなど、日頃からの心構えが必要だろう。